閉じる
閉じる
📌
閉じる
📌
伝説への登山
迷いと決断
現在の再生速度: 1.0倍
Coming soon!
でんせつが本当かどうかたしかめる。そんなトシさんの言葉に、ベレンはとてもきょうみを持った。しかし、千年以上もまもられてきたでんせつだ。自分がそのひみつをあきらかにしていいのか、ベレンはまだ迷っていた。
「といっても、すぐに答えを出すのはむずかしいだろう。今日はもうおそい。帰ってゆっくり考えてみてくれ。つづきは明日話してやるから」
そう言われて帰るとちゅうも、家に帰ってからも頭の中がまとまらなかった。
(少し気分てんかんをしよう…)
そう思ってさんぽに出た。
下諏訪(しもすわ)は高い場所にある町だ。春が始まったけど、夜はまだ少しさむい。つめたい空気がベレンの首元にやさしくふれた。しゅくの近くの田んぼの道を何も考えずに歩く。
信州(しんしゅう)はもう田植えのきせつだった。広がる田んぼには水がいっぱいにはられ、かえるの鳴き声がそこら中から聞こえてくる。止まらないかえるの鳴き声を聞きながら、トシさんのことを考えた。
とび出した実家の神社のこと、つたえられてきたでんせつのこと、そして、そのでんせつをまもること。今まで話さなかった自分のおいたちや、何代にもわたってつたえられてきたひみつを、ベレンに話してくれたのだ。地球のはんたいがわから日本に勉強に来て、信州(しんしゅう)で旅行中にぐうぜん居酒屋を見つけて、なかよくなっただけの大学生に。そして、それにはきっと意味がある。
しゅくに戻ってきた時、ベレンの気持ちはかたまっていた。
その夜はずいぶんふかく眠った気がした。
次の日、夕方に居酒屋「信濃(しなの)」に顔を出すと、もうトシさんはカウンターせきで座っていた。まだお客さんは二人のほかにだれもいない。
「きのうは急にあんな話をして、すまなかった。そのけんはいやだったら断ってくれてかまわない」
そう言ったトシさんは、どうやらお酒は飲んでいないみたいだった。
女将さんがそっと耳元で話してきた。
「何の話か知らないけど、トシさんめずらしくお酒も飲まずにずっと考えこんでたのよ」
それだけ言うと女将さんは気づかれないように台所のおくに入った。
トシさんはトシさんで、きっとしんけんに考えてくれているのだ。
ベレンはひざの上にのせた手をギュッとにぎりしめると、言った。
「トシさん、私、やってみるよ。ううん、ぜひやらせてください」
トシさんはおどろいたけど、目が小さく光った。
「…わかった。では、つたえられているほこらまでの具体的なみちじゅんを言うぞ。古い言い方が多いから日本語が母語ではない人には少しむずかしいかもしれない。意味は自分でしらべてくれ。メモは取れるか?」
「うん、だいじょうぶ」
「よし、始めるぞ。『…信濃(しなの)の国、千曲(ちくま)の大河(たいが)の出でたる(いでたる)所、名を甲武信ヶ岳(こうぶしんがたけ)といふ。その山の西ノ口(にしのくち)、毛木平(もうきだいら)より川に沿いて(そいて)遡る(さかのぼる)。やがて…』」
それからしばらく、居酒屋「信濃(しなの)」にはトシさんの声とベレンがメモする音がひびいた。
「…ふう。これですべてだ。小さいころに何回も覚えたから、間違っていないと思う」
そういうとトシさんはどっとつかれた様子でいすにふかく座った。
ゆっくりと話してくれたので、メモが追いつかないことはなかった。あとは、この少し古い言葉をげんだいの言葉になおすだけだ。
「トシさん、ありがとう。これをもとにほこらをさがしてみるね」
「そうするといい。れいを言わなきゃいけないのはこちらの方だ。無理せず登ってこい」
おくから女将さんが出てきた。
「お話は終わったの?」
「うん、もうだいじょうぶ。私、今週末に甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)に行ってきます」
「そう。くわしくはわからないけれど、気をつけてね」
その日はそれで終わりになった。
週末までの数日、ベレンはにもつをじゅんびしたり、ルートのかくにんをしたり、トシさんからアドバイスをもらったりした。古文(こぶん)の言い伝えを、じしょやネット、古文のきょうかしょを使ってしらべながら、わかりやすくまとめなおすこともした。
そして、出発の日がやってきた。
「といっても、すぐに答えを出すのはむずかしいだろう。今日はもうおそい。帰ってゆっくり考えてみてくれ。つづきは明日話してやるから」
そう言われて帰るとちゅうも、家に帰ってからも頭の中がまとまらなかった。
(少し気分てんかんをしよう…)
そう思ってさんぽに出た。
下諏訪(しもすわ)は高い場所にある町だ。春が始まったけど、夜はまだ少しさむい。つめたい空気がベレンの首元にやさしくふれた。しゅくの近くの田んぼの道を何も考えずに歩く。
信州(しんしゅう)はもう田植えのきせつだった。広がる田んぼには水がいっぱいにはられ、かえるの鳴き声がそこら中から聞こえてくる。止まらないかえるの鳴き声を聞きながら、トシさんのことを考えた。
とび出した実家の神社のこと、つたえられてきたでんせつのこと、そして、そのでんせつをまもること。今まで話さなかった自分のおいたちや、何代にもわたってつたえられてきたひみつを、ベレンに話してくれたのだ。地球のはんたいがわから日本に勉強に来て、信州(しんしゅう)で旅行中にぐうぜん居酒屋を見つけて、なかよくなっただけの大学生に。そして、それにはきっと意味がある。
しゅくに戻ってきた時、ベレンの気持ちはかたまっていた。
その夜はずいぶんふかく眠った気がした。
次の日、夕方に居酒屋「信濃(しなの)」に顔を出すと、もうトシさんはカウンターせきで座っていた。まだお客さんは二人のほかにだれもいない。
「きのうは急にあんな話をして、すまなかった。そのけんはいやだったら断ってくれてかまわない」
そう言ったトシさんは、どうやらお酒は飲んでいないみたいだった。
女将さんがそっと耳元で話してきた。
「何の話か知らないけど、トシさんめずらしくお酒も飲まずにずっと考えこんでたのよ」
それだけ言うと女将さんは気づかれないように台所のおくに入った。
トシさんはトシさんで、きっとしんけんに考えてくれているのだ。
ベレンはひざの上にのせた手をギュッとにぎりしめると、言った。
「トシさん、私、やってみるよ。ううん、ぜひやらせてください」
トシさんはおどろいたけど、目が小さく光った。
「…わかった。では、つたえられているほこらまでの具体的なみちじゅんを言うぞ。古い言い方が多いから日本語が母語ではない人には少しむずかしいかもしれない。意味は自分でしらべてくれ。メモは取れるか?」
「うん、だいじょうぶ」
「よし、始めるぞ。『…信濃(しなの)の国、千曲(ちくま)の大河(たいが)の出でたる(いでたる)所、名を甲武信ヶ岳(こうぶしんがたけ)といふ。その山の西ノ口(にしのくち)、毛木平(もうきだいら)より川に沿いて(そいて)遡る(さかのぼる)。やがて…』」
それからしばらく、居酒屋「信濃(しなの)」にはトシさんの声とベレンがメモする音がひびいた。
「…ふう。これですべてだ。小さいころに何回も覚えたから、間違っていないと思う」
そういうとトシさんはどっとつかれた様子でいすにふかく座った。
ゆっくりと話してくれたので、メモが追いつかないことはなかった。あとは、この少し古い言葉をげんだいの言葉になおすだけだ。
「トシさん、ありがとう。これをもとにほこらをさがしてみるね」
「そうするといい。れいを言わなきゃいけないのはこちらの方だ。無理せず登ってこい」
おくから女将さんが出てきた。
「お話は終わったの?」
「うん、もうだいじょうぶ。私、今週末に甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)に行ってきます」
「そう。くわしくはわからないけれど、気をつけてね」
その日はそれで終わりになった。
週末までの数日、ベレンはにもつをじゅんびしたり、ルートのかくにんをしたり、トシさんからアドバイスをもらったりした。古文(こぶん)の言い伝えを、じしょやネット、古文のきょうかしょを使ってしらべながら、わかりやすくまとめなおすこともした。
そして、出発の日がやってきた。
伝説の真偽を確かめる。そんなトシさんの言葉は非常に興味をそそられるものであった。しかし、千年以上も守られてきた伝説だ。下手に自分が暴いていいのか、まだ決心がつかなかった。
「といっても、即決は難しいだろう。今日はもう遅い。帰ってゆっくり考えてみてくれ。続きは明日話してやるから」
そういわれて帰路についたものの、家に帰ってからも思考の整理がつかなかった。
(少し気分転換をしよう…)
そう思って散歩に出た。
下諏訪は高原の街だ。春先とはいえ夜はまだ肌寒い。ひんやりとした空気がベレンの首元を心地よく撫ぜた。宿の近くの田んぼ道をただあてもなく歩く。
信州はもう田植えの季節だった。広がる田んぼには並並と水が張られ、蛙の鳴き声がそこら中から聞こえてくる。とめどない大合唱に耳を傾けながら、トシさんのことを考えた。
飛び出した実家の神社のこと、受け継がれた伝説のこと、そして、その継承のこと。今まで話してこなかった自分の生い立ちを、そして何代にもわたって受け継がれてきた秘密を、他ならぬベレンに話してくれたのだ。地球の裏側から日本に留学しにきて、旅行先の信州で偶然居酒屋を見つけて、仲良くなっただけの大学生に。そして、それにはきっと意味がある。
宿に戻ってきた時、ベレンの気持ちは固まっていた。
その夜は随分深く眠った気がした。
次の日、夕方に居酒屋「信濃」に顔を出すと、もうトシさんはカウンター席で座っていた。まだお客さんは二人のほかに誰もいない。
「昨日は唐突な話を振って、すまなかった。その件は嫌だったら断ってくれて構わない」
そう言ったトシさんは、どうやらお酒は飲んでいないみたいだった。
女将さんがこっそり耳打ちしてきた。
「何の話か知らないけど、トシさん珍しくお酒も飲まずにずっと考え込んでたのよ」
それだけ言うと女将さんはさりげなく厨房の奥に引っ込んだ。
トシさんはトシさんで、きっと真剣に考えてくれているのだ。
ベレンは膝の上にのせた手をギュッと握りしめると、言った。
「トシさん、私、やってみるよ。ううん、是非やらせてください」
トシさんの眼は一瞬の動揺の後、小さく光った。
「…わかった。では、伝えられている祠までの具体的な道順を言うぞ。諳んじるが、古めかしい言い方が多いから日本語が母語ではない者には少し難しいかもしれない。意味は自分で調べてくれ。メモは取れるか?」
「うん、大丈夫」
「よし、始めるぞ。『…信濃の国、千曲の大河の出でたる所、名を甲武信ヶ岳といふ。その山の西ノ口、毛木平より川に沿いて遡る。やがて…』」
それからしばらく、居酒屋「信濃」にはトシさんの声とベレンがメモする音が響いた。
「…ふう。これで全てだ。小さな頃に何度も諳んじたから、間違いはないと思う」
そういうとトシさんはどっと疲れた様子で椅子に深く座った。
ゆっくりと話してくれたので、メモが追い付かないことはなかった。後はこのやや古めかしい文面を現代語に訳するだけだ。
「トシさん、ありがとう。これを基に祠を探してみるね」
「そうするといい。礼を言わなきゃいけなのはこちらの方だ。無理せず登ってこい」
奥から女将さんが出てきた。
「お話は終わったの?」
「うん、もう大丈夫。私、今週末に甲武信ヶ岳に行ってきます」
「そう。詳しくはわからないけれど、気をつけてね」
その日はそれでお開きになった。
週末までの数日、ベレンは荷造りをしたり、ルートの確認をしたり、トシさんからアドバイスをもらったりした。古文口調の言い伝えを、辞書やネット、古文の教科書と見比べながらわかりやすいようにまとめなおすこともした。
そして、出発の日がやってきた。
「といっても、即決は難しいだろう。今日はもう遅い。帰ってゆっくり考えてみてくれ。続きは明日話してやるから」
そういわれて帰路についたものの、家に帰ってからも思考の整理がつかなかった。
(少し気分転換をしよう…)
そう思って散歩に出た。
下諏訪は高原の街だ。春先とはいえ夜はまだ肌寒い。ひんやりとした空気がベレンの首元を心地よく撫ぜた。宿の近くの田んぼ道をただあてもなく歩く。
信州はもう田植えの季節だった。広がる田んぼには並並と水が張られ、蛙の鳴き声がそこら中から聞こえてくる。とめどない大合唱に耳を傾けながら、トシさんのことを考えた。
飛び出した実家の神社のこと、受け継がれた伝説のこと、そして、その継承のこと。今まで話してこなかった自分の生い立ちを、そして何代にもわたって受け継がれてきた秘密を、他ならぬベレンに話してくれたのだ。地球の裏側から日本に留学しにきて、旅行先の信州で偶然居酒屋を見つけて、仲良くなっただけの大学生に。そして、それにはきっと意味がある。
宿に戻ってきた時、ベレンの気持ちは固まっていた。
その夜は随分深く眠った気がした。
次の日、夕方に居酒屋「信濃」に顔を出すと、もうトシさんはカウンター席で座っていた。まだお客さんは二人のほかに誰もいない。
「昨日は唐突な話を振って、すまなかった。その件は嫌だったら断ってくれて構わない」
そう言ったトシさんは、どうやらお酒は飲んでいないみたいだった。
女将さんがこっそり耳打ちしてきた。
「何の話か知らないけど、トシさん珍しくお酒も飲まずにずっと考え込んでたのよ」
それだけ言うと女将さんはさりげなく厨房の奥に引っ込んだ。
トシさんはトシさんで、きっと真剣に考えてくれているのだ。
ベレンは膝の上にのせた手をギュッと握りしめると、言った。
「トシさん、私、やってみるよ。ううん、是非やらせてください」
トシさんの眼は一瞬の動揺の後、小さく光った。
「…わかった。では、伝えられている祠までの具体的な道順を言うぞ。諳んじるが、古めかしい言い方が多いから日本語が母語ではない者には少し難しいかもしれない。意味は自分で調べてくれ。メモは取れるか?」
「うん、大丈夫」
「よし、始めるぞ。『…信濃の国、千曲の大河の出でたる所、名を甲武信ヶ岳といふ。その山の西ノ口、毛木平より川に沿いて遡る。やがて…』」
それからしばらく、居酒屋「信濃」にはトシさんの声とベレンがメモする音が響いた。
「…ふう。これで全てだ。小さな頃に何度も諳んじたから、間違いはないと思う」
そういうとトシさんはどっと疲れた様子で椅子に深く座った。
ゆっくりと話してくれたので、メモが追い付かないことはなかった。後はこのやや古めかしい文面を現代語に訳するだけだ。
「トシさん、ありがとう。これを基に祠を探してみるね」
「そうするといい。礼を言わなきゃいけなのはこちらの方だ。無理せず登ってこい」
奥から女将さんが出てきた。
「お話は終わったの?」
「うん、もう大丈夫。私、今週末に甲武信ヶ岳に行ってきます」
「そう。詳しくはわからないけれど、気をつけてね」
その日はそれでお開きになった。
週末までの数日、ベレンは荷造りをしたり、ルートの確認をしたり、トシさんからアドバイスをもらったりした。古文口調の言い伝えを、辞書やネット、古文の教科書と見比べながらわかりやすいようにまとめなおすこともした。
そして、出発の日がやってきた。