閉じる
閉じる
📌
閉じる
📌
伝説への登山
信濃屋にて
現在の再生速度: 1.0倍
Coming soon!
「こんにちは!」
「あら、ベレンちゃん、いらっしゃい」
アルゼンチンからの留学生、ベレンは、入り口を通って、いつものカウンターのせきに座った。
女将さん(おかみさん:お店でお客さんのおせわをする女性)がにこにことわらいながら台所から出てきた。
「よお!ひさしぶりじゃねえか!今度はどこ行ってたんだ?」
低い声でここにいつも来るお客さんのトシさんだ。
「やだなあトシさん、大学だよ。私が東京の大学生なの、わすれてない?」
「ガハハ、そうだったな、学生様は大変だ」
長野県(ながのけん)下諏訪(しもすわ)にある小さな居酒屋(いざかや:お酒を飲みながら食事ができる日本の飲食店)「信濃(しなの)」に来るのは、1か月ぶりだった。以前下諏訪に来た時にぐうぜん見つけ、その雰囲気と女将さんのやさしさが好きで通うようになった。
とはいえベレンは東京の大学生、しかもアルゼンチンからの留学生なのだから忙しい学生生活を送っているので、今回はゴールデンウィークの休みを使ってあそびに来たというわけだ。
「ベレンちゃんは、いつもと同じでいいの?」
「はい!おねがいします」
しばらく待って出てきたのは日本酒(にほんしゅ)とワカサギの天ぷら、それにイナゴの佃煮(つくだに:しょくざいを甘辛いタレでにて、しっかりあじをつけた日本の料理)だった。どちらも信州のふるさとの料理で、特にイナゴの佃煮は、長野県ならではの食文化だ。
トシさんがニコニコしながら言ってくる。
「おめえもすっかり信州人(しんしゅうじん)だな、ベレン。さいしょなんてイナゴの佃煮見ておどろいてたおれそうだったじゃねえか。それが今じゃ頭からバリバリ食って…」
「もう、トシさんいっつもその話。もう7か月も前のことでしょ?はずかしいなあ、やめてよ」
そう言いながら、ベレンは上手にはしを使ってイナゴの佃煮を食べる。こい味つけがお酒によく合う。
「しかも、私は信州人どころか日本人ですらないのよ?」
「いいじゃない、アルゼンチン生まれの信州人がいたって」
女将さんがじょうだんなのか本気なのか分からないような言い方で話しかけてきた。
「ガハハ、こりゃすごい」
トシさんと女将さんとくだらない話をしながらここですごすゆっくりとした時間が、ベレンは好きだった。
「今回も山に行くのか?」
トシさんが話を始めた。
「うん、でも、まだどこに登るかは決めてないよ」
ベレンは最近、登山にむちゅうになっていた。とはいえ、まだ始めて半年ほどなので1000mきゅうの山に登ることが多い。
「なるほどなあ。こないだはどこ登ったって言ってたっけ?」
「前は、北信(ほくしん)の飯縄山(いいづなやま)に登ったよ」
「1900mか…もうそこまでは登れるようになったんだな」
トシさんは3000mをこえる日本アルプスをいくつも登るようなすごい登山家だったらしい。今はもう山には登らないが、ベレンはこうして時々そうだんをしていた。山登りのイロハも教えてくれたのはトシさんだ。いっしょに登ったことはないが、先生と言ってもよかった。
「うん、まあ何とか登れたって感じだけど…」
「いや、始めて3か月でそれだけできるのはすごいね」
ほめてくれる時のトシさんはいつもしんけんな表情だ。ベレンはちょっとはずかしい気がする。
トシさんは、しばらく考えこむように目をギュッととじた。
トシさんは少しの間だまって考えてから、トシさんはいつになくまじめな顔で口を開いた。
「…つぎに登る山、きめてないんだよな」
「うん、そう。トシさんはどこがいいと思う?私はね、2000mくらいの烏帽子岳(えぼしだけ)とか…」
ベレンが言いかけたことばを、トシさんがとちゅうで止めた。
「甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)」
「「こ、甲武信ヶ岳?」」
じっと聞いていた女将さんと、ベレンの声がかさなった。
「そうだ。知ってはいるだろ?」
「そりゃ知ってはいるけど…」
甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)は日本百名山(にほんひゃくめいやま:日本の有名な100の山のリスト)の一つだ。長野県(ながのけん)、山梨県(やまなしけん)、埼玉県(さいたまけん)のけんきょうにある有名な山だった。だが、ベレンや女将さんがおどろいたのはそこではない。
「でも、甲武信ヶ岳は…」
ベレンが言いにくそうにしているのを見て、女将さんが代わりに言ってくれた。
「ベレンちゃんにはちょっと早いんじゃないかしら?」
そうなのだ。甲武信ヶ岳は山の高さがやく2500m。1900mの飯縄山を何とか登れた、というレベルのベレンには少し早い山登りだと思えた。
ところがトシさんはめずらしく首をふった。
「そんなことはねえ。ここまで成長してるベレンならいけるはずだ」
いつも女将さんにはんたいすることがなかったトシさんが、しんけんな顔で、強い言い方をした。
「…何かわけがあるの?」
女将さんは何かをりかいしたようだ。ベレンはまだよくわからなかった。トシさんがこんなに強く言うなんて、おどろくばかりだ。
「……」
トシさんはまた静かになった。女将将さんのことばが本当だったようだ。
「…たしかめてほしいことが、ある。」
トシさんは口を開いた。
「おれのこきょうは、川上村という小さな村だ。そこの神社のかんぬしの家の生まれだった」
「…おどろいた。トシさん、今まで一度もそんなこと…」
女将さんが目を丸くしていた。
「ああ、おれはかんぬしになるのがいやで、わかいころに家を出た。親父と大きなケンカをして、ほとんど会わないようになった。一人むすこだったから、神社はもうなくなったはずだ」
「会話に入ってしまってごめんなさい。つづけて?」
今まで一度も話したことがないトシさんのこきょうの話だ。急に空気がきんちょうしたのがわかった。
「その神社はとても古いものだが、一つ、つたえられているでんせつがあった。もういつの時代かもわからない。少なくとも千年は伝わっていると言われていたり、ひいひいおじいさんの作り話だとも言われていたが、しんじつはわからない。その話は一子相伝(いっしそうでん:とくべつなことを一人の子どもだけに伝えること)で、代々のかんぬしが長男にだけ伝えてきたものだ」
「それでためらっていたんだね」
ベレンはやっとわかった。
「まあ、そうだ。家をとびだしたとはいえ代々一子相伝(いっしそうでん)で伝えられてきた話だ。話すかどうか、とてもまよった。だがな」
トシさんの目が、いつもと違ってするどいひかりを持っていた。
「おれが死んだら、この話はえいえんに歴史のやみに消えることになる。おれに子供はいないからな。だからベレン、お前に話しておきたい。おれといっしょにこの話を消してしまいたくない。聞いてくれるか」
とつぜんの話に、ベレンはおどろいてあわてた。千年以上前から伝わるでんせつ。それをひきつぐのが外国人の私でいいのか。
「私でいい…のですか」
「ふん、あたりまえだ。それにこれをひきつぐのは、山を登れるやつじゃなきゃいかん」
「じゃあ私は席をはずしますね?」
そう言ったのは女将さんだ。
「ああ、そうしてもらえるとたすかる。一子相伝(いっしそうでん)、だからな」
女将さんはおくの部屋に入って行った。
それをかくにんしてからトシさんは話し出した。
「おれの御先祖(ごせんぞ:むかしの家族やしんせきのこと)は新潟(にいがた)の海辺にいたそうだ。むかし、たたかいにまけて、千曲川(ちくまがわ)をさかのぼってにげた。千曲川をどんどんさかのぼって、川の始まりがある山のふもとまで来た。この山が甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)だ。てきのぐんはまだおいかけてきたので、ご先祖様はついに甲武信ヶ岳の近くにある千曲川の始まりの場所、小さな洞窟(どうくつ:いわの中にできたしぜんのあなや部屋のこと)の中ににげた」
トシさんの声が小さな居酒屋(いざかや)に強くひびいた。はじめて人に話すからか、少し止まりながらもつづけた。
「そこで神様におねがいしたら、どうくつのてんじょうから銅の器(どうのうつわ)がおちてきた。そして神様の声がしたんだ。『その器(うつわ)で、日本一大きな川の水をすくって、飲め。その後、その人のねがいを一度だけかなえてあげよう』と。日本一大きな川ってのは、千曲川のことだな。つまりは千曲川の始まりの水をその器(うつわ)で飲んだ人のねがいを一つだけかなえると。そして、ご先祖様はその水を飲んで、神様にてきのぐんをおいはらうようにねがった。そのとき、どうくつの外でたくさんのかみなりのような光が光ったかと思うと、てきのぐんはもういなくなっていた」
「ご先祖はどうくつの中に小さなほこら(小さなじんじゃのようなもの)を作り、そこに器(うつわ)をおいた。それから、おれの家は山のふもとの村に住み、その神様を大事にするようになったのだと」
トシさんは一気に話してから、少しいきをついて水を飲んだ。
ベレンはおずおずと言った。
「…なんというか、思ったよりは普通のでんせつですね。一子相伝(いっしそうでん)にするほどなのかな…」
トシさんはふっとわらった。
「この話にはつづきがある。ご先祖様が行ったどうくつへの道がぐたいてきに伝えられているんだ」
ベレンはびっくりした。
「え、それじゃ、それにそって山を登れば...」
「そうだ。このでんせつが本当なら、千曲川の水が出る場所にほこらが建っているはずだ。そしてその中にある器(うつわ)で水を飲めば、どんなねがいもかなえられる」
一子相伝(いっしそうでん)になるのもなっとくだった。広まると困ると思われてきたのは、話が本当らしいからではないだろうか。
ふと、ベレンの中で一つのぎもんが生まれた。
「...でも、トシさんのご先祖、歴代のかんぬしさんたちはほこらをさがしに行ったりしなかったの?どんなながいもかなえられる、と聞いたらだれでも見てみたくなるとは思うのだけど」
トシさんは頭をかきながら言った。
「いや、たしかめようとしたやつは何人もいたさ。ただ、どうしてもたどりつけないんだ。言いつたえられているみちじゅんがとちゅうで間違っているのか、ちゃんとしたものなのか、それとも本当にあった話なのか、わからない」
ベレンは少しだけがっかりした。
「それじゃ、私にはきっとたどり着けないよ。今まで何人も行こうとしたけれどダメだったのに...」
トシさんはにっこりとわらった。
「ところがそうでもないんだ、ベレン。そのどうくつは、いっせつには、『男には』たどり着けないのだそうだ。でんせつに出てくる最初の人は女だったからな。日本の神道(しんとう)にしてはめずらしい話だが、どうくつは『男の人が入ってはいけない』なのだと。そして、家系図(かけいず:家族のつながりをしめす図)を見た感じでは、二代目から後のかんぬしはみんな男だった。近代までの日本は男系社会(だんけいしゃかい)だからな」
「つまり...?」
「つまりだな、ベレン。お前はこのでんせつをひきつぐ人として、はじめての女なんだ。お前なら、どうくつにたどり着けるかもしれない」
トシさんは目をかがやかせて言った。
「ベレン、でんせつが本当かどうか、たしかめてみないか」
「あら、ベレンちゃん、いらっしゃい」
アルゼンチンからの留学生、ベレンは、入り口を通って、いつものカウンターのせきに座った。
女将さん(おかみさん:お店でお客さんのおせわをする女性)がにこにことわらいながら台所から出てきた。
「よお!ひさしぶりじゃねえか!今度はどこ行ってたんだ?」
低い声でここにいつも来るお客さんのトシさんだ。
「やだなあトシさん、大学だよ。私が東京の大学生なの、わすれてない?」
「ガハハ、そうだったな、学生様は大変だ」
長野県(ながのけん)下諏訪(しもすわ)にある小さな居酒屋(いざかや:お酒を飲みながら食事ができる日本の飲食店)「信濃(しなの)」に来るのは、1か月ぶりだった。以前下諏訪に来た時にぐうぜん見つけ、その雰囲気と女将さんのやさしさが好きで通うようになった。
とはいえベレンは東京の大学生、しかもアルゼンチンからの留学生なのだから忙しい学生生活を送っているので、今回はゴールデンウィークの休みを使ってあそびに来たというわけだ。
「ベレンちゃんは、いつもと同じでいいの?」
「はい!おねがいします」
しばらく待って出てきたのは日本酒(にほんしゅ)とワカサギの天ぷら、それにイナゴの佃煮(つくだに:しょくざいを甘辛いタレでにて、しっかりあじをつけた日本の料理)だった。どちらも信州のふるさとの料理で、特にイナゴの佃煮は、長野県ならではの食文化だ。
トシさんがニコニコしながら言ってくる。
「おめえもすっかり信州人(しんしゅうじん)だな、ベレン。さいしょなんてイナゴの佃煮見ておどろいてたおれそうだったじゃねえか。それが今じゃ頭からバリバリ食って…」
「もう、トシさんいっつもその話。もう7か月も前のことでしょ?はずかしいなあ、やめてよ」
そう言いながら、ベレンは上手にはしを使ってイナゴの佃煮を食べる。こい味つけがお酒によく合う。
「しかも、私は信州人どころか日本人ですらないのよ?」
「いいじゃない、アルゼンチン生まれの信州人がいたって」
女将さんがじょうだんなのか本気なのか分からないような言い方で話しかけてきた。
「ガハハ、こりゃすごい」
トシさんと女将さんとくだらない話をしながらここですごすゆっくりとした時間が、ベレンは好きだった。
「今回も山に行くのか?」
トシさんが話を始めた。
「うん、でも、まだどこに登るかは決めてないよ」
ベレンは最近、登山にむちゅうになっていた。とはいえ、まだ始めて半年ほどなので1000mきゅうの山に登ることが多い。
「なるほどなあ。こないだはどこ登ったって言ってたっけ?」
「前は、北信(ほくしん)の飯縄山(いいづなやま)に登ったよ」
「1900mか…もうそこまでは登れるようになったんだな」
トシさんは3000mをこえる日本アルプスをいくつも登るようなすごい登山家だったらしい。今はもう山には登らないが、ベレンはこうして時々そうだんをしていた。山登りのイロハも教えてくれたのはトシさんだ。いっしょに登ったことはないが、先生と言ってもよかった。
「うん、まあ何とか登れたって感じだけど…」
「いや、始めて3か月でそれだけできるのはすごいね」
ほめてくれる時のトシさんはいつもしんけんな表情だ。ベレンはちょっとはずかしい気がする。
トシさんは、しばらく考えこむように目をギュッととじた。
トシさんは少しの間だまって考えてから、トシさんはいつになくまじめな顔で口を開いた。
「…つぎに登る山、きめてないんだよな」
「うん、そう。トシさんはどこがいいと思う?私はね、2000mくらいの烏帽子岳(えぼしだけ)とか…」
ベレンが言いかけたことばを、トシさんがとちゅうで止めた。
「甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)」
「「こ、甲武信ヶ岳?」」
じっと聞いていた女将さんと、ベレンの声がかさなった。
「そうだ。知ってはいるだろ?」
「そりゃ知ってはいるけど…」
甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)は日本百名山(にほんひゃくめいやま:日本の有名な100の山のリスト)の一つだ。長野県(ながのけん)、山梨県(やまなしけん)、埼玉県(さいたまけん)のけんきょうにある有名な山だった。だが、ベレンや女将さんがおどろいたのはそこではない。
「でも、甲武信ヶ岳は…」
ベレンが言いにくそうにしているのを見て、女将さんが代わりに言ってくれた。
「ベレンちゃんにはちょっと早いんじゃないかしら?」
そうなのだ。甲武信ヶ岳は山の高さがやく2500m。1900mの飯縄山を何とか登れた、というレベルのベレンには少し早い山登りだと思えた。
ところがトシさんはめずらしく首をふった。
「そんなことはねえ。ここまで成長してるベレンならいけるはずだ」
いつも女将さんにはんたいすることがなかったトシさんが、しんけんな顔で、強い言い方をした。
「…何かわけがあるの?」
女将さんは何かをりかいしたようだ。ベレンはまだよくわからなかった。トシさんがこんなに強く言うなんて、おどろくばかりだ。
「……」
トシさんはまた静かになった。女将将さんのことばが本当だったようだ。
「…たしかめてほしいことが、ある。」
トシさんは口を開いた。
「おれのこきょうは、川上村という小さな村だ。そこの神社のかんぬしの家の生まれだった」
「…おどろいた。トシさん、今まで一度もそんなこと…」
女将さんが目を丸くしていた。
「ああ、おれはかんぬしになるのがいやで、わかいころに家を出た。親父と大きなケンカをして、ほとんど会わないようになった。一人むすこだったから、神社はもうなくなったはずだ」
「会話に入ってしまってごめんなさい。つづけて?」
今まで一度も話したことがないトシさんのこきょうの話だ。急に空気がきんちょうしたのがわかった。
「その神社はとても古いものだが、一つ、つたえられているでんせつがあった。もういつの時代かもわからない。少なくとも千年は伝わっていると言われていたり、ひいひいおじいさんの作り話だとも言われていたが、しんじつはわからない。その話は一子相伝(いっしそうでん:とくべつなことを一人の子どもだけに伝えること)で、代々のかんぬしが長男にだけ伝えてきたものだ」
「それでためらっていたんだね」
ベレンはやっとわかった。
「まあ、そうだ。家をとびだしたとはいえ代々一子相伝(いっしそうでん)で伝えられてきた話だ。話すかどうか、とてもまよった。だがな」
トシさんの目が、いつもと違ってするどいひかりを持っていた。
「おれが死んだら、この話はえいえんに歴史のやみに消えることになる。おれに子供はいないからな。だからベレン、お前に話しておきたい。おれといっしょにこの話を消してしまいたくない。聞いてくれるか」
とつぜんの話に、ベレンはおどろいてあわてた。千年以上前から伝わるでんせつ。それをひきつぐのが外国人の私でいいのか。
「私でいい…のですか」
「ふん、あたりまえだ。それにこれをひきつぐのは、山を登れるやつじゃなきゃいかん」
「じゃあ私は席をはずしますね?」
そう言ったのは女将さんだ。
「ああ、そうしてもらえるとたすかる。一子相伝(いっしそうでん)、だからな」
女将さんはおくの部屋に入って行った。
それをかくにんしてからトシさんは話し出した。
「おれの御先祖(ごせんぞ:むかしの家族やしんせきのこと)は新潟(にいがた)の海辺にいたそうだ。むかし、たたかいにまけて、千曲川(ちくまがわ)をさかのぼってにげた。千曲川をどんどんさかのぼって、川の始まりがある山のふもとまで来た。この山が甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)だ。てきのぐんはまだおいかけてきたので、ご先祖様はついに甲武信ヶ岳の近くにある千曲川の始まりの場所、小さな洞窟(どうくつ:いわの中にできたしぜんのあなや部屋のこと)の中ににげた」
トシさんの声が小さな居酒屋(いざかや)に強くひびいた。はじめて人に話すからか、少し止まりながらもつづけた。
「そこで神様におねがいしたら、どうくつのてんじょうから銅の器(どうのうつわ)がおちてきた。そして神様の声がしたんだ。『その器(うつわ)で、日本一大きな川の水をすくって、飲め。その後、その人のねがいを一度だけかなえてあげよう』と。日本一大きな川ってのは、千曲川のことだな。つまりは千曲川の始まりの水をその器(うつわ)で飲んだ人のねがいを一つだけかなえると。そして、ご先祖様はその水を飲んで、神様にてきのぐんをおいはらうようにねがった。そのとき、どうくつの外でたくさんのかみなりのような光が光ったかと思うと、てきのぐんはもういなくなっていた」
「ご先祖はどうくつの中に小さなほこら(小さなじんじゃのようなもの)を作り、そこに器(うつわ)をおいた。それから、おれの家は山のふもとの村に住み、その神様を大事にするようになったのだと」
トシさんは一気に話してから、少しいきをついて水を飲んだ。
ベレンはおずおずと言った。
「…なんというか、思ったよりは普通のでんせつですね。一子相伝(いっしそうでん)にするほどなのかな…」
トシさんはふっとわらった。
「この話にはつづきがある。ご先祖様が行ったどうくつへの道がぐたいてきに伝えられているんだ」
ベレンはびっくりした。
「え、それじゃ、それにそって山を登れば...」
「そうだ。このでんせつが本当なら、千曲川の水が出る場所にほこらが建っているはずだ。そしてその中にある器(うつわ)で水を飲めば、どんなねがいもかなえられる」
一子相伝(いっしそうでん)になるのもなっとくだった。広まると困ると思われてきたのは、話が本当らしいからではないだろうか。
ふと、ベレンの中で一つのぎもんが生まれた。
「...でも、トシさんのご先祖、歴代のかんぬしさんたちはほこらをさがしに行ったりしなかったの?どんなながいもかなえられる、と聞いたらだれでも見てみたくなるとは思うのだけど」
トシさんは頭をかきながら言った。
「いや、たしかめようとしたやつは何人もいたさ。ただ、どうしてもたどりつけないんだ。言いつたえられているみちじゅんがとちゅうで間違っているのか、ちゃんとしたものなのか、それとも本当にあった話なのか、わからない」
ベレンは少しだけがっかりした。
「それじゃ、私にはきっとたどり着けないよ。今まで何人も行こうとしたけれどダメだったのに...」
トシさんはにっこりとわらった。
「ところがそうでもないんだ、ベレン。そのどうくつは、いっせつには、『男には』たどり着けないのだそうだ。でんせつに出てくる最初の人は女だったからな。日本の神道(しんとう)にしてはめずらしい話だが、どうくつは『男の人が入ってはいけない』なのだと。そして、家系図(かけいず:家族のつながりをしめす図)を見た感じでは、二代目から後のかんぬしはみんな男だった。近代までの日本は男系社会(だんけいしゃかい)だからな」
「つまり...?」
「つまりだな、ベレン。お前はこのでんせつをひきつぐ人として、はじめての女なんだ。お前なら、どうくつにたどり着けるかもしれない」
トシさんは目をかがやかせて言った。
「ベレン、でんせつが本当かどうか、たしかめてみないか」
「こんにちは!」
「あら、ベレンちゃん、いらっしゃい」
アルゼンチンからの留学生、ベレンは暖簾をくぐっていつものカウンター席に座った。
女将さんがにっこりと笑いながら厨房から出てきた。
「よお!久しぶりじゃねえか!今度はどこ行ってたんだ?」
だみ声で話しかけてきたのはここの常連、トシさんだ。
「やだなあトシさん、大学だよ。私が東京の大学生なの、忘れてない?」
「ガハハ、そうだったな、学生様は大変だ」
この長野県下諏訪の小さな居酒屋、「信濃」に顔を出すのは1か月ぶりだった。以前下諏訪に来た時に偶然見つけ、その雰囲気と女将さんの優しさに惹かれて通うようになった。
とはいえベレンは東京の大学生、しかもアルゼンチンからの留学生なのだから学業もそれなりに多忙で、今回はゴールデンウイークの休みを利用して遊びに来たというわけだ。
「ベレンちゃんは、いつもと同じで良いの?」
「はい!お願いします」
しばらく待って出てきたのは日本酒とワカサギの天ぷら、それにイナゴの佃煮だった。どちらも信州の郷土料理で、特にイナゴの佃煮は日本中でもここ長野県特有の文化だ。
トシさんがニヤニヤ笑いながら言ってくる。
「おめえもすっかり信州人だな、ベレン。最初なんてイナゴの佃煮見て卒倒してたじゃねえか。それが今じゃ頭からバリバリ食って…」
「もう、トシさんいっつもその話。もう7か月も前のことでしょ?恥ずかしいなあ、勘弁してよ」
そう言いながらベレンは器用に箸を使ってイナゴの佃煮を口に運ぶ。濃い味つけがお酒によく合う。
「しかも、私は信州人どころか日本人ですらないのよ?」
「いいじゃない、アルゼンチン生まれの信州人がいたって」
女将さんが冗談か本気かわからないような口ぶりで話しかけてきた。
「ガハハ、こりゃ傑作だ」
トシさんと女将さんとくだらない話をしながらここで過ごすゆっくりとした時間が、ベレンは好きだった。
「今回も山に行くのか?」
トシさんが話題を振ってきた。
「うん、でも、まだどこに登るかは決めてないよ」
ベレンは最近登山にはまっていた。とはいえ、まだ始めて半年ほどなので1000m級の山に登ることが多い。
「なるほどなあ。こないだはどこ登ったって言ってたっけ?」
「前は、北信の飯縄山に登ったよ」
「標高1900mか…もうそこまでは登れるようになったんだな」
トシさんは昔は3000mをこえる日本アルプスを縦走するような凄腕の登山家だったらしい。今はもう山には登らないが、ベレンはこうして時折相談に乗ってもらっていた。山登りのイロハも教えてくれたのはトシさんだ。一緒に登ったことはないが、師匠と言ってもよかった。
「うん、まあ何とか登れたって感じだけど…」
「いや、始めて3か月でそれだけ登れれば大したものだ」
褒めてくれる時のトシさんはいつも真剣な表情だ。ベレンは少しこそばゆい。
トシさんは少しの間、考え込むようにギュッと目を瞑った。
暫くの沈黙の後、トシさんはいつになく真面目な顔で口を開いた。
「…次に登る山、決めてないんだよな」
「うん、そう。トシさんはどこがいいと思う?私はね、2000mちょいの烏帽子岳とか…」
そう言いかけたベレンを遮って、トシさんの声が飛んできた。
「甲武信ヶ岳」
「「こ、甲武信ヶ岳?」」
じっと聞き耳を立てていた女将さんと、ベレンの声が被った。
「そうだ。知ってはいるだろ?」
「そりゃ知ってはいるけど…」
甲武信ヶ岳は日本百名山の一つだ。長野県、山梨県、埼玉県の県境に位置する有名な山だった。だが、ベレンや女将さんが驚いたのはそこではない。
「でも、甲武信ヶ岳は…」
ベレンが言いづらそうにしているのを見て、女将さんが代弁してくれた。
「ベレンちゃんにはちょっと早いんじゃないかしら?」
そうなのだ。甲武信ヶ岳は標高2500m弱。1900mの飯縄山を何とか登れた、というレベルのベレンには少し早い挑戦に思えた。
ところがトシさんは珍しく首を振った。
「そんなことはねえ。ここまで成長してるベレンならいけるはずだ」
いつも女将さんに反論することなどなかったトシさんが真顔で、強い口調で言った。
「…何か訳があるの?」
女将さんは何か察したようだ。ベレンはまだよくわからなかった。ただ頑固とは無縁だと思っていたトシさんの珍しい様子に驚くばかりだ。
「……」
トシさんはまた黙り込んでしまった。女将さんの指摘は図星だったようだ。
「…確かめてほしいことが、ある。」
トシさんは口を開いた。
「俺の故郷は、川上村という小さな村だ。そこの神社の神主の家の生まれだった」
「…驚いた。トシさん、今まで一度もそんなこと…」
女将さんが目を丸くしていた。
「ああ、俺は神主になるのが嫌で、若いころに家を出た。親父とは大喧嘩をして勘当同然だった。一人息子だったから、神社はもう無くなったはずだ」
「口を挟んでごめんなさい。続けて?」
今まで一度も語ったことが無いトシさんの故郷の話なのだ。急に空気が緊張したのがわかった。
「そこの神社は相当に古いものだが、一つ、口伝されている伝説があった。もういつの時代かもわからない。少なくとも千年は伝わっているとか、ひいひい爺さんの作り話だとか、色々言われていたが真相は不明だ。その話は一子相伝、代々の神主が長男にのみ伝えてきたものだ」
「それで渋っていたんだね」
ベレンはようやく合点がいった。
「まあ、そうだ。家を飛び出したとはいえ代々一子相伝で伝えられてきた話だ。話すかどうか随分迷った。だがな」
トシさんの眼が、いつになく鋭い光を放っていた。
「俺が死んだら、この話は永遠に歴史の闇に消えることになる。俺に子供はいないからな。だからベレン、お前に話しておきたい。俺と一緒にこの話を消してしまいたくない。聞いてくれるか」
突然の話にベレンは動揺した。千年以上前から伝わる伝説。それを引き継ぐのが外国人の私でいいのか。
「私でいい…のですか」
「ふん、当たり前だ。それにこれを引き継ぐのは、山を登れるやつじゃなきゃいかん」
「じゃあ私は席を外しますね?」
そう言ったのは女将さんだ。
「ああ、そうしてもらえると助かる。一子相伝、だからな」
女将さんは暖簾を降ろして奥へと引っ込んでしまった。
それを確認してからトシさんは話し出した。
「俺の御先祖は新潟の海辺にいたそうだ。大昔、戦に負けて、千曲川を遡上して逃げた。どこまでも遡上して、千曲川が流れ出す山の麓まで来た。この山が甲武信ヶ岳だ。敵の軍勢はまだ追ってくるので、ご先祖様はとうとう甲武信ヶ岳の頂上にほど近い千曲川の源流が湧き出すところ、小さな洞窟の中にまで追い詰められた」
トシさんの声が小さな居酒屋に朗々と響く。初めて人に話すからか、少し詰まりながらも続けた。
「そこで神に祈ったところ、洞窟の天井から銅の器が落ちてきた。そして神様の声がしたんだ。『その器で日の本一の大河の始まりを汲み、その喉を潤せ。さすればそのものの願いを一度だけ叶えて進ぜよう』と。日の本一の大河ってのは、千曲川のことだな。つまりは千曲川の源流の水をその器で飲んだものの願いを一つだけ叶えると。そして、ご先祖様は水を飲み、敵の軍勢を追い払うよう神様に頼んだ。刹那、洞窟の外に何十もの稲光が起きたかと思うと、敵の軍勢は跡形もなくいなくなっていた」
「ご先祖は洞窟の中に小さな祠を築き、そこに器を安置した。以来、俺の家は麓の村に根付き、その神をあがめるようにしたのだと」
トシさんは一気に話してから、少し息をついて水を飲んだ。
ベレンはおずおずと言った。
「…なんというか、思ったよりは普通の伝説ですね。一子相伝にするほどなのかな…」
トシさんはふっと笑った。
「この話には続きがある。ご先祖様が辿り着いた洞窟までの行き方が具体的に伝えられているんだ」
ベレンはびっくりした。
「え、それじゃ、それに沿って山を登れば...」
「そうだ。この伝説が本当なら、千曲川の水源地には祠が建っているはずだ。そしてその中にある器で水を飲めば、どんな願いも叶えられる」
一子相伝になるのも納得だった。広まってしまうとまずいという認識が受け継がれてきたのも、話の信憑性が高いからではないだろうか。
ふと、ベレンの中で一つの疑問が生まれた。
「...でも、トシさんのご先祖、歴代の神主さんたちは祠を探しに行ったりしなかったの?どんな願いも叶えられる、と聞いたら誰でも見てみたくなるとは思うのだけど」
トシさんは頭を搔きながら言った。
「いや、確かめようとしたやつは何人もいたさ。ただ、どうしても辿り着けないんだ。言い伝えられている道順が不完全なのか間違っているのか、そもそも本当の話なのかも判らない」
ベレンは少しだけがっかりした。
「それじゃ、私にはきっと辿り着けないよ。今まで何人も挑戦してダメだったのに...」
トシさんはにやりと笑う。
「ところがそうでもないんだ、ベレン。その洞窟は、一説には、『男には』辿り着けないのだそうだ。伝説に出てくる初代は女だったからな。日本の神道にしては珍しい話だが、洞窟は『男子禁制』なのだと。そして、家系図を見る限り、二代目以降の代々の神主は全員が男だった。基本的に近代までの日本は男系社会だからな」
「つまり...?」
「つまりだな、ベレン。お前はこの伝説の継承者としては、初代以来の女性なんだ。お前なら、洞窟まで辿り着ける可能性がある」
トシさんは目を光らせて言った。
「ベレン、伝説の真偽を確かめてみないか」
「あら、ベレンちゃん、いらっしゃい」
アルゼンチンからの留学生、ベレンは暖簾をくぐっていつものカウンター席に座った。
女将さんがにっこりと笑いながら厨房から出てきた。
「よお!久しぶりじゃねえか!今度はどこ行ってたんだ?」
だみ声で話しかけてきたのはここの常連、トシさんだ。
「やだなあトシさん、大学だよ。私が東京の大学生なの、忘れてない?」
「ガハハ、そうだったな、学生様は大変だ」
この長野県下諏訪の小さな居酒屋、「信濃」に顔を出すのは1か月ぶりだった。以前下諏訪に来た時に偶然見つけ、その雰囲気と女将さんの優しさに惹かれて通うようになった。
とはいえベレンは東京の大学生、しかもアルゼンチンからの留学生なのだから学業もそれなりに多忙で、今回はゴールデンウイークの休みを利用して遊びに来たというわけだ。
「ベレンちゃんは、いつもと同じで良いの?」
「はい!お願いします」
しばらく待って出てきたのは日本酒とワカサギの天ぷら、それにイナゴの佃煮だった。どちらも信州の郷土料理で、特にイナゴの佃煮は日本中でもここ長野県特有の文化だ。
トシさんがニヤニヤ笑いながら言ってくる。
「おめえもすっかり信州人だな、ベレン。最初なんてイナゴの佃煮見て卒倒してたじゃねえか。それが今じゃ頭からバリバリ食って…」
「もう、トシさんいっつもその話。もう7か月も前のことでしょ?恥ずかしいなあ、勘弁してよ」
そう言いながらベレンは器用に箸を使ってイナゴの佃煮を口に運ぶ。濃い味つけがお酒によく合う。
「しかも、私は信州人どころか日本人ですらないのよ?」
「いいじゃない、アルゼンチン生まれの信州人がいたって」
女将さんが冗談か本気かわからないような口ぶりで話しかけてきた。
「ガハハ、こりゃ傑作だ」
トシさんと女将さんとくだらない話をしながらここで過ごすゆっくりとした時間が、ベレンは好きだった。
「今回も山に行くのか?」
トシさんが話題を振ってきた。
「うん、でも、まだどこに登るかは決めてないよ」
ベレンは最近登山にはまっていた。とはいえ、まだ始めて半年ほどなので1000m級の山に登ることが多い。
「なるほどなあ。こないだはどこ登ったって言ってたっけ?」
「前は、北信の飯縄山に登ったよ」
「標高1900mか…もうそこまでは登れるようになったんだな」
トシさんは昔は3000mをこえる日本アルプスを縦走するような凄腕の登山家だったらしい。今はもう山には登らないが、ベレンはこうして時折相談に乗ってもらっていた。山登りのイロハも教えてくれたのはトシさんだ。一緒に登ったことはないが、師匠と言ってもよかった。
「うん、まあ何とか登れたって感じだけど…」
「いや、始めて3か月でそれだけ登れれば大したものだ」
褒めてくれる時のトシさんはいつも真剣な表情だ。ベレンは少しこそばゆい。
トシさんは少しの間、考え込むようにギュッと目を瞑った。
暫くの沈黙の後、トシさんはいつになく真面目な顔で口を開いた。
「…次に登る山、決めてないんだよな」
「うん、そう。トシさんはどこがいいと思う?私はね、2000mちょいの烏帽子岳とか…」
そう言いかけたベレンを遮って、トシさんの声が飛んできた。
「甲武信ヶ岳」
「「こ、甲武信ヶ岳?」」
じっと聞き耳を立てていた女将さんと、ベレンの声が被った。
「そうだ。知ってはいるだろ?」
「そりゃ知ってはいるけど…」
甲武信ヶ岳は日本百名山の一つだ。長野県、山梨県、埼玉県の県境に位置する有名な山だった。だが、ベレンや女将さんが驚いたのはそこではない。
「でも、甲武信ヶ岳は…」
ベレンが言いづらそうにしているのを見て、女将さんが代弁してくれた。
「ベレンちゃんにはちょっと早いんじゃないかしら?」
そうなのだ。甲武信ヶ岳は標高2500m弱。1900mの飯縄山を何とか登れた、というレベルのベレンには少し早い挑戦に思えた。
ところがトシさんは珍しく首を振った。
「そんなことはねえ。ここまで成長してるベレンならいけるはずだ」
いつも女将さんに反論することなどなかったトシさんが真顔で、強い口調で言った。
「…何か訳があるの?」
女将さんは何か察したようだ。ベレンはまだよくわからなかった。ただ頑固とは無縁だと思っていたトシさんの珍しい様子に驚くばかりだ。
「……」
トシさんはまた黙り込んでしまった。女将さんの指摘は図星だったようだ。
「…確かめてほしいことが、ある。」
トシさんは口を開いた。
「俺の故郷は、川上村という小さな村だ。そこの神社の神主の家の生まれだった」
「…驚いた。トシさん、今まで一度もそんなこと…」
女将さんが目を丸くしていた。
「ああ、俺は神主になるのが嫌で、若いころに家を出た。親父とは大喧嘩をして勘当同然だった。一人息子だったから、神社はもう無くなったはずだ」
「口を挟んでごめんなさい。続けて?」
今まで一度も語ったことが無いトシさんの故郷の話なのだ。急に空気が緊張したのがわかった。
「そこの神社は相当に古いものだが、一つ、口伝されている伝説があった。もういつの時代かもわからない。少なくとも千年は伝わっているとか、ひいひい爺さんの作り話だとか、色々言われていたが真相は不明だ。その話は一子相伝、代々の神主が長男にのみ伝えてきたものだ」
「それで渋っていたんだね」
ベレンはようやく合点がいった。
「まあ、そうだ。家を飛び出したとはいえ代々一子相伝で伝えられてきた話だ。話すかどうか随分迷った。だがな」
トシさんの眼が、いつになく鋭い光を放っていた。
「俺が死んだら、この話は永遠に歴史の闇に消えることになる。俺に子供はいないからな。だからベレン、お前に話しておきたい。俺と一緒にこの話を消してしまいたくない。聞いてくれるか」
突然の話にベレンは動揺した。千年以上前から伝わる伝説。それを引き継ぐのが外国人の私でいいのか。
「私でいい…のですか」
「ふん、当たり前だ。それにこれを引き継ぐのは、山を登れるやつじゃなきゃいかん」
「じゃあ私は席を外しますね?」
そう言ったのは女将さんだ。
「ああ、そうしてもらえると助かる。一子相伝、だからな」
女将さんは暖簾を降ろして奥へと引っ込んでしまった。
それを確認してからトシさんは話し出した。
「俺の御先祖は新潟の海辺にいたそうだ。大昔、戦に負けて、千曲川を遡上して逃げた。どこまでも遡上して、千曲川が流れ出す山の麓まで来た。この山が甲武信ヶ岳だ。敵の軍勢はまだ追ってくるので、ご先祖様はとうとう甲武信ヶ岳の頂上にほど近い千曲川の源流が湧き出すところ、小さな洞窟の中にまで追い詰められた」
トシさんの声が小さな居酒屋に朗々と響く。初めて人に話すからか、少し詰まりながらも続けた。
「そこで神に祈ったところ、洞窟の天井から銅の器が落ちてきた。そして神様の声がしたんだ。『その器で日の本一の大河の始まりを汲み、その喉を潤せ。さすればそのものの願いを一度だけ叶えて進ぜよう』と。日の本一の大河ってのは、千曲川のことだな。つまりは千曲川の源流の水をその器で飲んだものの願いを一つだけ叶えると。そして、ご先祖様は水を飲み、敵の軍勢を追い払うよう神様に頼んだ。刹那、洞窟の外に何十もの稲光が起きたかと思うと、敵の軍勢は跡形もなくいなくなっていた」
「ご先祖は洞窟の中に小さな祠を築き、そこに器を安置した。以来、俺の家は麓の村に根付き、その神をあがめるようにしたのだと」
トシさんは一気に話してから、少し息をついて水を飲んだ。
ベレンはおずおずと言った。
「…なんというか、思ったよりは普通の伝説ですね。一子相伝にするほどなのかな…」
トシさんはふっと笑った。
「この話には続きがある。ご先祖様が辿り着いた洞窟までの行き方が具体的に伝えられているんだ」
ベレンはびっくりした。
「え、それじゃ、それに沿って山を登れば...」
「そうだ。この伝説が本当なら、千曲川の水源地には祠が建っているはずだ。そしてその中にある器で水を飲めば、どんな願いも叶えられる」
一子相伝になるのも納得だった。広まってしまうとまずいという認識が受け継がれてきたのも、話の信憑性が高いからではないだろうか。
ふと、ベレンの中で一つの疑問が生まれた。
「...でも、トシさんのご先祖、歴代の神主さんたちは祠を探しに行ったりしなかったの?どんな願いも叶えられる、と聞いたら誰でも見てみたくなるとは思うのだけど」
トシさんは頭を搔きながら言った。
「いや、確かめようとしたやつは何人もいたさ。ただ、どうしても辿り着けないんだ。言い伝えられている道順が不完全なのか間違っているのか、そもそも本当の話なのかも判らない」
ベレンは少しだけがっかりした。
「それじゃ、私にはきっと辿り着けないよ。今まで何人も挑戦してダメだったのに...」
トシさんはにやりと笑う。
「ところがそうでもないんだ、ベレン。その洞窟は、一説には、『男には』辿り着けないのだそうだ。伝説に出てくる初代は女だったからな。日本の神道にしては珍しい話だが、洞窟は『男子禁制』なのだと。そして、家系図を見る限り、二代目以降の代々の神主は全員が男だった。基本的に近代までの日本は男系社会だからな」
「つまり...?」
「つまりだな、ベレン。お前はこの伝説の継承者としては、初代以来の女性なんだ。お前なら、洞窟まで辿り着ける可能性がある」
トシさんは目を光らせて言った。
「ベレン、伝説の真偽を確かめてみないか」