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神の棲む街
下社と手紙
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次の日の早い朝、蓮とベレンは信州(現在の長野県)の冷たい風の中を勢いよく進んでいた。
「どう?自慢のカワサキ(バイクの会社) Ninja250(バイクの種類)の乗った感じは!」
蓮の母親が作ってくれた朝ごはんを早い時間に食べた後、蓮がガレージから出してきたのは250ccのバイクだったのだ。
諏訪は冬もよく晴れていて、朝と晩は非情に寒くなる。気温は当たり前に0℃以下。
蓮の上着を借りてかなり着こんでいるが、非常に冷たい風がベレンにひどく吹く。
(さ、寒い…)
それに、バイクに乗るのは初めてだった。そのスピードに思わず体が固まり、蓮の腰に回す腕に力が入る。
左側でずっと続いていた山が急に見えなくなった。
「見て、諏訪湖よ!朝の時間は特に綺麗でしょ?少し凍っているようだけれど、湖全体が凍るのはまだみたいね」
バイクから落ちないように必死なベレンはその声に返事をする余裕もなかった。
「ついたよ!ベレン、大丈夫?」
ヘルメットを取って長い髪を風に吹かれる蓮はとてもかっこよく見える。
まだあしのふるえが止まらないベレンは、何度か声を出さず、うなずくことしかできない。
「ここが下社春宮、下社最初の遷座地よ」
少し息を落ち着かせてから、やっとベレンは質問する。
「…せんざち、とは何ですか?」
知らない単語だ。
「諏訪大社の下社では、神様が一年の間に二つの宮を行ったり来たりするの。8月から1月は秋宮に、2月から7月はこの春宮にいらっしゃるのよ。これを『遷座』というの」
「で、この『遷座』が始まった時、最初に神様がいたのがここ、春宮だと言われているのよ。最初の遷座地といわれるのはこのような理由よ」
目の前には灰色の鳥居、その隣には『諏訪大社』と書かれた石のはしらが建っている。
大きな木が生き生きとしており、右側には石でできた壁が続いている。
「神社から真っすぐに長い道が続いているでしょう?ここは、昔は武士たちが流鏑馬を行った場所だったの」
やぶさめ、は知っている。馬に乗って走りながら弓で的をねらう競技だ。
「早速お参りしていきましょう!今日はもう一つ、秋宮にもいかなきゃいけないし」
大きな鳥居を通ると、石でできた道が奥まで続いている。外とは雰囲気が違う。空気がますます冷たくすんでいる気がした。ベレンは少し緊張する。
道を歩いていくと、中央にたてに長い小屋のような建物が一つ、その後ろに立派な社があった。
「近い方が神楽殿、遠い方がメインの社殿ね」
心なしか、蓮も声が小さい。
神楽殿の隣を通って社殿に到着すると、ベレンはその美しさと細かい彫刻に思わず息を止めた。
「すごい…」
「彫刻は、よく見ておいてね」
蓮が意味ありげにささやいた。
神社での参拝の作法を蓮から教わり、ベレンは諏訪大社での初めての参拝を終えた。
駐車場まで歩くベレンに、蓮は明るい調子で話しかけた。
「まあでも今は、神様は春宮にはいないんだけどね!」
「えっ!?」
「そうよ?ほら、言ったじゃない?『遷座』があるって」
「諏訪大社下社、春宮と秋宮の主祭神、ヤサカトメノ神は今は秋宮にいらっしゃるの。会いに行きましょう!」
え、じゃあ今のお参りは…?
混乱するベレンを尻目に、蓮は颯爽とバイクにまたがった。
「ほら、早く!」
春宮から秋宮まではわずか1kmほどしかはなれていなかった。
「ここが秋宮…」
春宮と違い、少し山や坂の多い場所だ。
大きな鳥居を通った先の道も、おだやかな上り坂で階段になっている。それに、春宮と違い社殿までまっすぐに続いているわけではなさそうだ。
「下社の神様、ヤサカトメノ神は今はここ、秋宮にいらっしゃるの」
蓮からそう聞くと、ベレンは一層きんちょうした。
一歩ずつゆっくりと、石でできた階段を上っていく。左右に大きな木が並び、冬なのにうっそうとしている。階段を上り切ると左に他よりも大きくりっぱな木があり、特別ななわが巻かれている。
「これは秋宮の神聖な木である御神木。春宮にもこんな木があるのよ。見たでしょ?」
「確かにありましたね」
そんな話をしながら御神木をまわりこんだ。
「…?」
少し変な感じがする。そして、御神木の向こう側の建物の目の前まで来たとき、なぜそう感じたのか分かった。
「蓮、これ…」
蓮が笑って小さい声で答える。
「気がついたのね、ベレン」
同じだ。ほとんど、いや全くと言ってよかった。
「そうよ。諏訪大社下社の二つの宮、春宮と秋宮は、全く同じ建てられかたなの。建てるとき、同じ図を渡されたそうよ」
「ここが神楽殿、そしてその後ろには同じように社殿があるわ」
見たことがあるなと思いながら、ベレンは神楽殿を見てから社殿に向かった。
きれいだ。同じ建物をさっきも見たはずが、ベレンは全く同じように感動していた。
蓮が話しかける。
「よく見て、ベレン。建物全体の構造は同じだけど、社殿のちょう刻だけは春宮と違うの。当時の人たちは同じ建物を作る中で、ここで工夫や技術を勝負したそうよ。ベレンはどっちが好き?」
確かに春宮で見たものとは細かいデザインが違っていた。すごく細かくきれいで美しい。
「私には、選べません…春宮と秋宮、どちらもすごくきれいです」
「ん、私もそう思うわ」
蓮は秋宮の社殿での参拝を終えると、
「ちょっとお手洗いに行ってくるね、少しだけここで待っていて?」
と言い,ベレンを社殿の前に残して行ってしまった。
平日だからか、大社のしき地にはだれもいない。
ぼんやりと社殿を後ろにして神楽殿を見ていると、突然後ろから声が飛んできた。
「ね、あなた、どこから来たの?」
びっくりしてふり向くと、20代くらいの若い女の人が社殿のすみに座っている。冬だというのにはだしに青色の浴衣を着ていた。黒く長い髪のととのったすがたからは少し人間ばなれした感じがした。
おどろいて答えられずにいると、その人はそのまま話しかけ続けた。
「外国から来たんでしょ?日本にはいない顔だもの」
なんとかベレンは答える。
「ええ…アルゼンチンから来ました」
「へえ、どこなの?そこ。どのくらい遠いのかしら?」
「日本から海を挟んで17000kmくらいです」
「千七百キロ…って船でどのくらいかかる?唐国や天竺、南蛮よりも遠いのかしら?」
からくに?てんじく?なんばん?国や地名を指す言葉と思われるが、ベレンには理解できない。それになぜ船…
「船でどれくらいかかるかはわかりません。でも、どの国よりも遠いと思います。」
「それは…よくわからないけど、とにかく遠いのね。そんなところからわざわざ来てくれてありがとうね」
なぜこの人がお礼を言うのだろう。
それに、神社の建物に座っているのはまずいんじゃないだろうか…
「あの、私が言うことではないのかもしれませんが、神社に上がって座るのは良くないと思います。神様に怒られますよ」
ベレンはためらいながら言った。
それを聞いた女の人は、おどろいて、しばらくして突然笑い出した。
「ふふ、そうね。神様に怒られちゃうわね。でもいいのよ。ここ、私の家だから」
…?私の家?意味が分からない。日本だけのジョーク?ベレンは混乱した。
そんなベレンの様子に気にも留めず、女の人は話し続けた。
「私ね、恋人がいるの。もうずっと付き合っている方なのだけど。でもね、最近全然会えてなくって。そろそろ会いに来てくれないかしらってこうして家の前で待っているのよ」
その悩んだ表情もとても美しく、ベレンはドキドキしながら話した。
「その、お相手はどんな方なのですか?」
「どんな人…かっこよくて、優しくて、強い人よ。ずいぶん昔に西の方から諏訪にきて、その時に出会ったの。昔は毎年会いに来てくれていたんだけどね、どうしてるのかな…早く会いたいな…」
「連絡をとってみたらどうでしょう?メールとかで」
「めーる…恋文なら書いたのよ?」
そう言って彼女は神社の中から、はり切って四つ折りにされた白い和紙を持ってきた。
「でもね、私、あんまりここから動いてはいけないから、せっかく書いても彼に届ける方法がないのよね」
そう言って彼女は手紙をひらひらとふり、少しだけ考え込む。
「…あなた、今は旅行中、よね?諏訪大社巡り、かしら?」
「はい、そうです」
「上社にはもう行ったの?」
何が言いたいのだろう。わけもわからず答える。
「いや、まだです。明日行くつもりです」
それを聞くと、彼女はパっと目をかがやかせた。
「お願いがあるの。この文を、上社の本宮に届けてくれないかしら?」
「ただ置いてくるだけでいいから。ね?お願い…」
手をにぎり、すがるように見つめる彼女に押され、ベレンはただ何度もうなずくだけで精いっぱいだった。
「そう、じゃあよろしく頼むわね」
彼女がベレンに手紙を手渡したとき、後ろから蓮の声が飛んできた。
「ベレン!ごめん、お待たせ!帰ろう!」
はっと蓮の方をふり向いて、その後もう一度社殿にふり返ると、浴衣すがたの女の人はいなくなっていた。
「…ベレン?どうしたの?」
「蓮、今ここに居た女の人は…」
「女の人、ベレンしかいなかったじゃない」
げん覚でも見たのだろうか?しかし、手にはしっかりと四つ折りにした和紙がにぎられていた。
「あれ?ベレン、何その紙」
「なんでもないよ」
そう答えると、ベレンは手紙をカバンの中にていねいにしまった。
「帰りましょう、蓮」
最後、大鳥居をくぐる時、後ろから声が聞こえた。
『きっと、忘れずに届けてね。お願い』
ベレンがふり返っても、そこにはだれもいない。
「ベレン?どうしたの?」
蓮が不思議そうにこちらを見ている。
「なんでもない。早く帰りましょう?」
そう言ってベレンは急いで駐車場へと向かった。
その日の夜も、ベレンは宿で蓮たちと一緒に夕食を食べた。
タケノコご飯やわかさぎの煮物など、この場所で採れるものがたくさん並んでいる。
一日中出歩いてくたびれたベレンと蓮には温かいご飯はとても美味しく感じた。
女将さんがたずねてきた。
「今日は、ベレンと蓮はどこに行ってきたの?下諏訪のほうに行ったみたいだけど」
早くかんで、あわてて食べようとするベレンに代わって蓮が答える。
「今日は下社に行ってきたの。春宮と秋宮、どっちも行ってきたよ」
「あら、それは遠くまで行ったのね。混んでいなかった?」
「平日だからか、全然。秋宮なんて私たちだけだったもん」
ベレンがたずねる。
「あの、諏訪大社の下社にいる神様って、どんな神様なのですか?」
だんなさんが答える。
「ヤサカトメノ神、だね。諏訪にずっといらっしゃる女の神様、つまりは女神様、なんだけど…」
そう言ってから、だんなさんはあきれたように笑って言う。
「ここから先は蓮に説明してもらおうか。お前がしゃべりたそうだし」
待っていましたとばかりに蓮が口を開く。
「そう、ヤサカトメノ神は諏訪の女神様なの。一説には、海の神様であるわだつみの娘であるともされているのよ」
諏訪の女神様…
秋宮で出会った不思議な女の人のことが思い出された。
いや、でも、そんなまさかね。
「でね、明日行く上社にはタケミナカタノ神っていう男の神様がいるのだけれど、この二人は夫婦なのよ。諏訪大社は下社と上社で二人の神様がいる神社なの。さらに言えば…」
話し続ける蓮にだんなさんが止めに入る。
「ほら、その続きは明日上社に行ってからにしたら?今日はもう遅いし、風呂に入って寝なさい」
蓮は少しだけむっとして答えた。
「はあい。じゃあ続きは明日のお楽しみね?おやすみなさい、ベレン」
「ええ、蓮、おやすみなさい」
女将さんが用意してくれた柔らかい布団の中で、ベレンは今日の出来事を考えていた。
秋宮で出会った女の人のこと、下社秋宮の神様であるヤサカトメノ神のこと、彼女の夫である上社の主祭神、タケミナカタノ神のこと。
そして、あの女の人から上社に持っていって欲しいと頼まれた手紙のこと。
カバンを開けると、そこには確かにていねいに折ってある和紙の手紙が入っていた。
…とにかく、蓮に神様のことをもっと聞いてみよう。そして、上社本宮に手紙を届けるのを忘れないようにしないと。そんなことを考えているうちにベレンは眠りについた。
「どう?自慢のカワサキ(バイクの会社) Ninja250(バイクの種類)の乗った感じは!」
蓮の母親が作ってくれた朝ごはんを早い時間に食べた後、蓮がガレージから出してきたのは250ccのバイクだったのだ。
諏訪は冬もよく晴れていて、朝と晩は非情に寒くなる。気温は当たり前に0℃以下。
蓮の上着を借りてかなり着こんでいるが、非常に冷たい風がベレンにひどく吹く。
(さ、寒い…)
それに、バイクに乗るのは初めてだった。そのスピードに思わず体が固まり、蓮の腰に回す腕に力が入る。
左側でずっと続いていた山が急に見えなくなった。
「見て、諏訪湖よ!朝の時間は特に綺麗でしょ?少し凍っているようだけれど、湖全体が凍るのはまだみたいね」
バイクから落ちないように必死なベレンはその声に返事をする余裕もなかった。
「ついたよ!ベレン、大丈夫?」
ヘルメットを取って長い髪を風に吹かれる蓮はとてもかっこよく見える。
まだあしのふるえが止まらないベレンは、何度か声を出さず、うなずくことしかできない。
「ここが下社春宮、下社最初の遷座地よ」
少し息を落ち着かせてから、やっとベレンは質問する。
「…せんざち、とは何ですか?」
知らない単語だ。
「諏訪大社の下社では、神様が一年の間に二つの宮を行ったり来たりするの。8月から1月は秋宮に、2月から7月はこの春宮にいらっしゃるのよ。これを『遷座』というの」
「で、この『遷座』が始まった時、最初に神様がいたのがここ、春宮だと言われているのよ。最初の遷座地といわれるのはこのような理由よ」
目の前には灰色の鳥居、その隣には『諏訪大社』と書かれた石のはしらが建っている。
大きな木が生き生きとしており、右側には石でできた壁が続いている。
「神社から真っすぐに長い道が続いているでしょう?ここは、昔は武士たちが流鏑馬を行った場所だったの」
やぶさめ、は知っている。馬に乗って走りながら弓で的をねらう競技だ。
「早速お参りしていきましょう!今日はもう一つ、秋宮にもいかなきゃいけないし」
大きな鳥居を通ると、石でできた道が奥まで続いている。外とは雰囲気が違う。空気がますます冷たくすんでいる気がした。ベレンは少し緊張する。
道を歩いていくと、中央にたてに長い小屋のような建物が一つ、その後ろに立派な社があった。
「近い方が神楽殿、遠い方がメインの社殿ね」
心なしか、蓮も声が小さい。
神楽殿の隣を通って社殿に到着すると、ベレンはその美しさと細かい彫刻に思わず息を止めた。
「すごい…」
「彫刻は、よく見ておいてね」
蓮が意味ありげにささやいた。
神社での参拝の作法を蓮から教わり、ベレンは諏訪大社での初めての参拝を終えた。
駐車場まで歩くベレンに、蓮は明るい調子で話しかけた。
「まあでも今は、神様は春宮にはいないんだけどね!」
「えっ!?」
「そうよ?ほら、言ったじゃない?『遷座』があるって」
「諏訪大社下社、春宮と秋宮の主祭神、ヤサカトメノ神は今は秋宮にいらっしゃるの。会いに行きましょう!」
え、じゃあ今のお参りは…?
混乱するベレンを尻目に、蓮は颯爽とバイクにまたがった。
「ほら、早く!」
春宮から秋宮まではわずか1kmほどしかはなれていなかった。
「ここが秋宮…」
春宮と違い、少し山や坂の多い場所だ。
大きな鳥居を通った先の道も、おだやかな上り坂で階段になっている。それに、春宮と違い社殿までまっすぐに続いているわけではなさそうだ。
「下社の神様、ヤサカトメノ神は今はここ、秋宮にいらっしゃるの」
蓮からそう聞くと、ベレンは一層きんちょうした。
一歩ずつゆっくりと、石でできた階段を上っていく。左右に大きな木が並び、冬なのにうっそうとしている。階段を上り切ると左に他よりも大きくりっぱな木があり、特別ななわが巻かれている。
「これは秋宮の神聖な木である御神木。春宮にもこんな木があるのよ。見たでしょ?」
「確かにありましたね」
そんな話をしながら御神木をまわりこんだ。
「…?」
少し変な感じがする。そして、御神木の向こう側の建物の目の前まで来たとき、なぜそう感じたのか分かった。
「蓮、これ…」
蓮が笑って小さい声で答える。
「気がついたのね、ベレン」
同じだ。ほとんど、いや全くと言ってよかった。
「そうよ。諏訪大社下社の二つの宮、春宮と秋宮は、全く同じ建てられかたなの。建てるとき、同じ図を渡されたそうよ」
「ここが神楽殿、そしてその後ろには同じように社殿があるわ」
見たことがあるなと思いながら、ベレンは神楽殿を見てから社殿に向かった。
きれいだ。同じ建物をさっきも見たはずが、ベレンは全く同じように感動していた。
蓮が話しかける。
「よく見て、ベレン。建物全体の構造は同じだけど、社殿のちょう刻だけは春宮と違うの。当時の人たちは同じ建物を作る中で、ここで工夫や技術を勝負したそうよ。ベレンはどっちが好き?」
確かに春宮で見たものとは細かいデザインが違っていた。すごく細かくきれいで美しい。
「私には、選べません…春宮と秋宮、どちらもすごくきれいです」
「ん、私もそう思うわ」
蓮は秋宮の社殿での参拝を終えると、
「ちょっとお手洗いに行ってくるね、少しだけここで待っていて?」
と言い,ベレンを社殿の前に残して行ってしまった。
平日だからか、大社のしき地にはだれもいない。
ぼんやりと社殿を後ろにして神楽殿を見ていると、突然後ろから声が飛んできた。
「ね、あなた、どこから来たの?」
びっくりしてふり向くと、20代くらいの若い女の人が社殿のすみに座っている。冬だというのにはだしに青色の浴衣を着ていた。黒く長い髪のととのったすがたからは少し人間ばなれした感じがした。
おどろいて答えられずにいると、その人はそのまま話しかけ続けた。
「外国から来たんでしょ?日本にはいない顔だもの」
なんとかベレンは答える。
「ええ…アルゼンチンから来ました」
「へえ、どこなの?そこ。どのくらい遠いのかしら?」
「日本から海を挟んで17000kmくらいです」
「千七百キロ…って船でどのくらいかかる?唐国や天竺、南蛮よりも遠いのかしら?」
からくに?てんじく?なんばん?国や地名を指す言葉と思われるが、ベレンには理解できない。それになぜ船…
「船でどれくらいかかるかはわかりません。でも、どの国よりも遠いと思います。」
「それは…よくわからないけど、とにかく遠いのね。そんなところからわざわざ来てくれてありがとうね」
なぜこの人がお礼を言うのだろう。
それに、神社の建物に座っているのはまずいんじゃないだろうか…
「あの、私が言うことではないのかもしれませんが、神社に上がって座るのは良くないと思います。神様に怒られますよ」
ベレンはためらいながら言った。
それを聞いた女の人は、おどろいて、しばらくして突然笑い出した。
「ふふ、そうね。神様に怒られちゃうわね。でもいいのよ。ここ、私の家だから」
…?私の家?意味が分からない。日本だけのジョーク?ベレンは混乱した。
そんなベレンの様子に気にも留めず、女の人は話し続けた。
「私ね、恋人がいるの。もうずっと付き合っている方なのだけど。でもね、最近全然会えてなくって。そろそろ会いに来てくれないかしらってこうして家の前で待っているのよ」
その悩んだ表情もとても美しく、ベレンはドキドキしながら話した。
「その、お相手はどんな方なのですか?」
「どんな人…かっこよくて、優しくて、強い人よ。ずいぶん昔に西の方から諏訪にきて、その時に出会ったの。昔は毎年会いに来てくれていたんだけどね、どうしてるのかな…早く会いたいな…」
「連絡をとってみたらどうでしょう?メールとかで」
「めーる…恋文なら書いたのよ?」
そう言って彼女は神社の中から、はり切って四つ折りにされた白い和紙を持ってきた。
「でもね、私、あんまりここから動いてはいけないから、せっかく書いても彼に届ける方法がないのよね」
そう言って彼女は手紙をひらひらとふり、少しだけ考え込む。
「…あなた、今は旅行中、よね?諏訪大社巡り、かしら?」
「はい、そうです」
「上社にはもう行ったの?」
何が言いたいのだろう。わけもわからず答える。
「いや、まだです。明日行くつもりです」
それを聞くと、彼女はパっと目をかがやかせた。
「お願いがあるの。この文を、上社の本宮に届けてくれないかしら?」
「ただ置いてくるだけでいいから。ね?お願い…」
手をにぎり、すがるように見つめる彼女に押され、ベレンはただ何度もうなずくだけで精いっぱいだった。
「そう、じゃあよろしく頼むわね」
彼女がベレンに手紙を手渡したとき、後ろから蓮の声が飛んできた。
「ベレン!ごめん、お待たせ!帰ろう!」
はっと蓮の方をふり向いて、その後もう一度社殿にふり返ると、浴衣すがたの女の人はいなくなっていた。
「…ベレン?どうしたの?」
「蓮、今ここに居た女の人は…」
「女の人、ベレンしかいなかったじゃない」
げん覚でも見たのだろうか?しかし、手にはしっかりと四つ折りにした和紙がにぎられていた。
「あれ?ベレン、何その紙」
「なんでもないよ」
そう答えると、ベレンは手紙をカバンの中にていねいにしまった。
「帰りましょう、蓮」
最後、大鳥居をくぐる時、後ろから声が聞こえた。
『きっと、忘れずに届けてね。お願い』
ベレンがふり返っても、そこにはだれもいない。
「ベレン?どうしたの?」
蓮が不思議そうにこちらを見ている。
「なんでもない。早く帰りましょう?」
そう言ってベレンは急いで駐車場へと向かった。
その日の夜も、ベレンは宿で蓮たちと一緒に夕食を食べた。
タケノコご飯やわかさぎの煮物など、この場所で採れるものがたくさん並んでいる。
一日中出歩いてくたびれたベレンと蓮には温かいご飯はとても美味しく感じた。
女将さんがたずねてきた。
「今日は、ベレンと蓮はどこに行ってきたの?下諏訪のほうに行ったみたいだけど」
早くかんで、あわてて食べようとするベレンに代わって蓮が答える。
「今日は下社に行ってきたの。春宮と秋宮、どっちも行ってきたよ」
「あら、それは遠くまで行ったのね。混んでいなかった?」
「平日だからか、全然。秋宮なんて私たちだけだったもん」
ベレンがたずねる。
「あの、諏訪大社の下社にいる神様って、どんな神様なのですか?」
だんなさんが答える。
「ヤサカトメノ神、だね。諏訪にずっといらっしゃる女の神様、つまりは女神様、なんだけど…」
そう言ってから、だんなさんはあきれたように笑って言う。
「ここから先は蓮に説明してもらおうか。お前がしゃべりたそうだし」
待っていましたとばかりに蓮が口を開く。
「そう、ヤサカトメノ神は諏訪の女神様なの。一説には、海の神様であるわだつみの娘であるともされているのよ」
諏訪の女神様…
秋宮で出会った不思議な女の人のことが思い出された。
いや、でも、そんなまさかね。
「でね、明日行く上社にはタケミナカタノ神っていう男の神様がいるのだけれど、この二人は夫婦なのよ。諏訪大社は下社と上社で二人の神様がいる神社なの。さらに言えば…」
話し続ける蓮にだんなさんが止めに入る。
「ほら、その続きは明日上社に行ってからにしたら?今日はもう遅いし、風呂に入って寝なさい」
蓮は少しだけむっとして答えた。
「はあい。じゃあ続きは明日のお楽しみね?おやすみなさい、ベレン」
「ええ、蓮、おやすみなさい」
女将さんが用意してくれた柔らかい布団の中で、ベレンは今日の出来事を考えていた。
秋宮で出会った女の人のこと、下社秋宮の神様であるヤサカトメノ神のこと、彼女の夫である上社の主祭神、タケミナカタノ神のこと。
そして、あの女の人から上社に持っていって欲しいと頼まれた手紙のこと。
カバンを開けると、そこには確かにていねいに折ってある和紙の手紙が入っていた。
…とにかく、蓮に神様のことをもっと聞いてみよう。そして、上社本宮に手紙を届けるのを忘れないようにしないと。そんなことを考えているうちにベレンは眠りについた。
次の日の早朝、蓮とベレンは信州の冷たい風を切り裂いていた。
「どう?自慢のカワサキ Ninja250の乗り心地は!」
女将さんが作ってくれた早めの朝食を食べた後、蓮がガレージから引っ張り出してきたのは250ccのバイクだったのだ。
諏訪は冬もよく晴れていて、朝晩は非常に冷え込む。気温は当然氷点下。
蓮の上着を借りて相当着こんではいるものの、氷点下の風はベレンに容赦なく突き刺さる。
(さ、寒い…)
それに、バイクに乗るのは初めてだった。そのスピード感に思わず体が硬直し、蓮にしがみつく手に力が入る。
左手の景色が急に開けた。
「ほら、諏訪湖よ!朝方は特に綺麗でしょ?少し凍っているようだけれど、全面結氷はまだみたいね」
蓮の背中にしがみつくのに必死なベレンはその声に返事をする余裕すらなかった。
「ついたよ!ベレン、大丈夫?」
ヘルメットを取って長い髪をなびかせる蓮はとてもかっこよく見える。
まだ脚の震えが止まらないベレンは、コクコクと無言でうなずくので精いっぱいだ。
「ここが下社春宮、下社最初の遷座地よ」
少し息を整えてから、やっとベレンは聞き返す。
「…せんざち、とは何ですか?」
知らない響きだ。
「諏訪大社の下社では、神様が一年の間に二つの宮を行き来するの。8月から1月は秋宮に、2月から7月はこの春宮にいらっしゃるのよ。これを『遷座』というの」
「で、この『遷座』が始まった時、最初に神様がいたのがここ、春宮だと言われているのよ。最初の遷座地といわれるのはそういうこと」
目の前には御影石の鳥居、その脇には『諏訪大社』と彫られた石柱が建っている。
大きな木が茂り、右手には石垣が続いている。
「社殿から真っすぐに長い道路が伸びているでしょう?ここは、昔は武士たちが流鏑馬を競った馬場だったの」
やぶさめ、は知っている。馬に乗って駆けながら弓で的を射る競技だ。
「早速参拝していきましょう!今日はもう一つ、秋宮にもいかなきゃいけないし」
大鳥居をくぐると、石畳の参道が奥まで続いている。周囲とは雰囲気が違う。空気が一層ひんやりと澄んでいる気がした。ベレンは少し緊張する。
参道を歩くと途中で中央に縦に長い小屋のような建物が一つ、その後ろに立派な社があった。
「手前側が神楽殿、奥がメインの社殿ね」
心なしか、蓮も小声だ。
神楽殿の脇を抜けて社殿にたどり着くと、ベレンはその美しさと緻密な彫刻に息を呑んだ。
「すごい…」
「彫刻は、よく見ておいてね」
蓮が意味ありげに囁いた。
神社での参拝の作法を蓮から教わり、ベレンは諏訪大社での初めての参拝を終えた。
駐車場まで歩くベレンに、蓮は明るい調子で話しかけた。
「まあでも今は、神様は春宮にはいないんだけどね!」
「えっ!?」
「そうよ?ほら、言ったじゃない?『遷座』があるって」
「諏訪大社下社、春宮と秋宮の主祭神、ヤサカトメノ神は今は秋宮にいらっしゃるの。会いに行きましょう!」
え、じゃあ今の参拝は…?
混乱するベレンを尻目に、蓮は颯爽とバイクにまたがった。
「ほら、早く!」
春宮から秋宮まではわずか1kmほどの距離だった。
「ここが秋宮…」
春宮と違い、少し山がちで坂の多い場所だ。
大鳥居をくぐった先の参道も、緩やかな上り坂で階段状になっている。それに、春宮と異なり社殿までまっすぐに続いているわけではなさそうだ。
「下社の主祭神、ヤサカトメノ神は今はここ、秋宮にいらっしゃるの」
蓮からそう聞くと、秋宮の境内の雰囲気は一層厳かなものに感じられた。
一歩ずつゆっくりと、石畳の階段を上っていく。左右に大きな針葉樹が立ち並び、冬なのにうっそうとしている。階段を上り切ると左手に他よりも大きく立派な木があり、しめ縄が絞められている。
「これは秋宮の御神木の一位の木。春宮にも御神木の杉の木があるのよ。みたでしょ?」
「確かにありましたね」
そんな話をしながら御神木をまわりこんだ。
「…?」
微かな違和感を覚える。そして、御神木の向こう側の建物の目の前まで来たとき、違和感の正体が明らかになった。
「蓮、これ…」
蓮がにんまりと笑って小声で答える。
「気づいたのね、ベレン」
同じだ。殆ど、いや全くと言ってよかった。
「そうよ。諏訪大社下社の二つの宮、春宮と秋宮は、全く同じ造りなの。建造を命じられた時、同じ絵図面を渡されたそうよ」
「ここが神楽殿、そしてその後ろには同じように社殿があるわ」
デジャヴのような感覚に襲われながら、ベレンは神楽殿をまわりこんで社殿に向かった。
綺麗だ。同じ建物をつい先ほども見たはずが、ベレンは全く同じように感動していた。
蓮が話しかける。
「よく見て、ベレン。建物全体の造りは同じだけど、社殿の彫刻だけは春宮と異なっているの。当時の宮大工たちは同じ建物を作る中で、ここで創意工夫や技術を競ったそうよ。ベレンはどっちがお気に入り?」
確かに春宮でみたものとは細部の装飾や彫刻が異なっていた。すごく緻密で美しい。
「私には、優劣なんてつけられません…春宮と秋宮、どちらもすごく綺麗です」
「ん、私もそう思うわ」
蓮は秋宮社殿での参拝を終えると、
「ちょっとお手洗いに行ってくるね、少しだけここで待っていて?」
と言い残して行ってしまった。
ベレンは社殿の前で一人取り残された。
平日だからか、境内には誰もいない。
ほんやりと社殿を背に神楽殿を眺めていると、突然後ろから声が飛んできた。
「ね、あなた、どこから来たの?」
びっくりして振り向くと、20代くらいの若い女の人が社殿の縁側に座っている。冬だというのに青色の浴衣姿に裸足で、黒く長い髪と整った容貌がちょっと人間離れした雰囲気を感じさせた。
驚いて答えられずにいると、その人はそのまま話しかけ続けた。
「異国から来たんでしょ?日の本にはいない顔だもの」
なんとかベレンは答える。
「ええ…アルゼンチンから来ました」
「へえ、どこなの?そこ。どのくらい遠いのかしら?」
「日本から海を挟んで17000kmくらいです」
「千七百キロ…って船でどのくらいかかる?唐国や天竺、南蛮よりも遠いのかしら?」
からくに?てんじく?なんばん?国や地名を指す言葉と思われるが、ベレンには理解できない。それになぜ船…
「船でどれくらいかかるかはわかりません。でも、どの国よりも遠いと思います。」
「それは…よくわからないけど、とにかく遠いのね。そんなところからわざわざ来てくれてありがとうね」
なぜこの人がお礼を言うのだろう。
それに、神社の縁側に座っているのはまずいんじゃないだろうか…
「あの、私が言うことではないのかもしれませんが、神社に上がり込むのは良くないと思います。神様に怒られますよ」
ベレンはおずおずと切り出した。
それを聞いた女の人は、目をまん丸にしたかと思うと、しばらくして突然笑い出した。
「ふふ、そうね。神様に怒られちゃうわね。でもいいのよ。ここ、私の家だから」
…?私の家?意味が分からない。日本語特有のジョーク?ベレンは混乱した。
そんなベレンの様子に気にも留めず、女の人は話し続けた。
「私ね、恋人がいるの。もうずっと付き合っている方なのだけど。でもね、最近全然会えてなくって。そろそろ会いに来てくれないかしらってこうして家の前で待っているのよ」
その物憂げな表情もとても美しく、ベレンはドキドキしながら話した。
「その、お相手はどんな方なのですか?」
「どんな人…かっこよくて、優しくて、強い人よ。随分昔に西の方から諏訪にやってきて、その時に出会ったの。昔は毎年会いに来てくれていたんだけどね、どうしてるのかな…早く会いたいな…」
「連絡をとってみたらどうでしょう?メールとかで」
「めーる…恋文なら書いたのよ?」
そういって彼女はいそいそと神社の中に入ると、四つ折りにされた白い和紙を持ってきた。
「でもね、私、あんまりここから動いちゃいけないから、せっかく書いても彼に届ける方法がないのよね」
そう言って彼女は手紙をひらひらと振り、少しだけ考え込む。
「…あなた、今は旅行中、よね?諏訪大社巡り、といったところ?」
「はい、そうです」
「上社にはもう行ったの?」
何が言いたいのだろう。わけもわからず答える。
「いや、まだです。明日行くつもりです」
それを聞くと、彼女はパっと目を輝かせた。
「お願いがあるの。この文を、上社の本宮に届けてくれないかしら」
「ただ置いてくるだけでいいから。ね?お願い…」
手を握り、縋るように見つめる彼女に押され、ベレンはただコクコクと頷くだけで精いっぱいだった。
「そう、じゃあよろしく頼むわね」
彼女がベレンに手紙を手渡したとき、後ろから蓮の声が飛んできた。
「ベレン!ごめん、お待たせ!帰ろう!」
はっと蓮の方を振り向いて、その後もう一度社殿に振り返ると、浴衣姿の女の人はいなくなっていた。
「…ベレン?どうしたの?」
「蓮、今ここに居た女の人は…」
「女の人、ベレンしかいなかったじゃない」
幻覚でも見たのだろうか?しかし、手にはしっかりと四つ折りにした和紙が握られていた。
「あれ?ベレン、何その紙」
「なんでもないよ」
そう答えると、ベレンは手紙をカバンの中に丁寧にしまった。
「帰りましょう、蓮」
最後、大鳥居をくぐる時、後ろから声が聞こえた。
『きっと、忘れずに届けてね。お願い』
ベレンが振り返っても、そこには誰もいない。
「ベレン?どうしたの?」
蓮が不思議そうにこちらを見ている。
「なんでもない。早く帰りましょう?」
そう言ってベレンは足早に駐車場へと向かった。
その日の夜も、ベレンは民宿で蓮たちと一緒に夕食を食べた。
タケノコご飯やわかさぎの佃煮など、地元で採れるものが所狭しと並んでいる。
一日中出歩いてくたびれたベレンと蓮には温かいご飯はとても美味しく感じた。
女将さんが訊いてきた。
「今日は、ベレンと蓮はどこに行ってきたの?下諏訪のほうに行ったみたいだけど」
もぐもぐと口を動かし、慌てて呑み込もうとするベレンに代わって蓮が答える。
「今日は下社に行ってきたの。春宮と秋宮、どっちも参拝してきたよ」
「あら、それは遠くまで行ったのね。混んでいなかった?」
「平日だからか、全然。秋宮なんて私たちだけだったもん」
ベレンが尋ねる。
「あの、諏訪大社の下社に祀られている神様って、どんな神様なのですか?」
旦那さんが答える。
「ヤサカトメノ神、だね。諏訪にずっといらっしゃる女の神様、つまりは女神様、なんだけど…」
そう言ってから、旦那さんは呆れたように笑って言う。
「ここから先は蓮に説明してもらおうか。何だか自分が喋りたそうだし」
待っていましたとばかりに蓮が口を開く。
「そう、ヤサカトメノ神は諏訪古来の女神様なの。一説には、海の神様であるわだつみの娘であるともされているのよ」
諏訪古来の女神様…
秋宮で出会った不思議な女の人のことがベレンの脳裏によぎった。
いや、でも、そんなまさかね。
「でね、明日行く上社にはタケミナカタノ神っていう男の神様が祀られているのだけれど、この二人は夫婦なのよ。諏訪大社は下社と上社で二人の主祭神を持つ神社なの。さらに言えば…」
堰をきったように蓮は話し続ける蓮を旦那さんが制する。
「ほら、その続きは明日上社に行ってからにしたら?今日はもう遅いし、風呂に入って寝なさい」
蓮は少しだけむくれて答えた。
「はあい。じゃあ続きは明日のお楽しみね?おやすみなさい、ベレン」
「ええ、蓮、おやすみなさい」
女将さんが用意してくれたふかふかの布団の中で、ベレンは今日の出来事を考えていた。
秋宮で出会った女の人のこと、下社秋宮の主祭神であるヤサカトメノ神のこと、彼女の夫である上社の主祭神、タケミナカタノ神のこと。
そして、あの女の人から上社に持っていって欲しいと頼まれた手紙のこと。
カバンを開けると、そこには確かに和紙の手紙が丁寧に折りたたまれて入っていた。
…とにかく、蓮に神様のことをもっと聞いてみよう。そして、上社本宮に手紙を届けるのを忘れないようにしないと。そんなことを考えているうちにベレンは眠りについた。
「どう?自慢のカワサキ Ninja250の乗り心地は!」
女将さんが作ってくれた早めの朝食を食べた後、蓮がガレージから引っ張り出してきたのは250ccのバイクだったのだ。
諏訪は冬もよく晴れていて、朝晩は非常に冷え込む。気温は当然氷点下。
蓮の上着を借りて相当着こんではいるものの、氷点下の風はベレンに容赦なく突き刺さる。
(さ、寒い…)
それに、バイクに乗るのは初めてだった。そのスピード感に思わず体が硬直し、蓮にしがみつく手に力が入る。
左手の景色が急に開けた。
「ほら、諏訪湖よ!朝方は特に綺麗でしょ?少し凍っているようだけれど、全面結氷はまだみたいね」
蓮の背中にしがみつくのに必死なベレンはその声に返事をする余裕すらなかった。
「ついたよ!ベレン、大丈夫?」
ヘルメットを取って長い髪をなびかせる蓮はとてもかっこよく見える。
まだ脚の震えが止まらないベレンは、コクコクと無言でうなずくので精いっぱいだ。
「ここが下社春宮、下社最初の遷座地よ」
少し息を整えてから、やっとベレンは聞き返す。
「…せんざち、とは何ですか?」
知らない響きだ。
「諏訪大社の下社では、神様が一年の間に二つの宮を行き来するの。8月から1月は秋宮に、2月から7月はこの春宮にいらっしゃるのよ。これを『遷座』というの」
「で、この『遷座』が始まった時、最初に神様がいたのがここ、春宮だと言われているのよ。最初の遷座地といわれるのはそういうこと」
目の前には御影石の鳥居、その脇には『諏訪大社』と彫られた石柱が建っている。
大きな木が茂り、右手には石垣が続いている。
「社殿から真っすぐに長い道路が伸びているでしょう?ここは、昔は武士たちが流鏑馬を競った馬場だったの」
やぶさめ、は知っている。馬に乗って駆けながら弓で的を射る競技だ。
「早速参拝していきましょう!今日はもう一つ、秋宮にもいかなきゃいけないし」
大鳥居をくぐると、石畳の参道が奥まで続いている。周囲とは雰囲気が違う。空気が一層ひんやりと澄んでいる気がした。ベレンは少し緊張する。
参道を歩くと途中で中央に縦に長い小屋のような建物が一つ、その後ろに立派な社があった。
「手前側が神楽殿、奥がメインの社殿ね」
心なしか、蓮も小声だ。
神楽殿の脇を抜けて社殿にたどり着くと、ベレンはその美しさと緻密な彫刻に息を呑んだ。
「すごい…」
「彫刻は、よく見ておいてね」
蓮が意味ありげに囁いた。
神社での参拝の作法を蓮から教わり、ベレンは諏訪大社での初めての参拝を終えた。
駐車場まで歩くベレンに、蓮は明るい調子で話しかけた。
「まあでも今は、神様は春宮にはいないんだけどね!」
「えっ!?」
「そうよ?ほら、言ったじゃない?『遷座』があるって」
「諏訪大社下社、春宮と秋宮の主祭神、ヤサカトメノ神は今は秋宮にいらっしゃるの。会いに行きましょう!」
え、じゃあ今の参拝は…?
混乱するベレンを尻目に、蓮は颯爽とバイクにまたがった。
「ほら、早く!」
春宮から秋宮まではわずか1kmほどの距離だった。
「ここが秋宮…」
春宮と違い、少し山がちで坂の多い場所だ。
大鳥居をくぐった先の参道も、緩やかな上り坂で階段状になっている。それに、春宮と異なり社殿までまっすぐに続いているわけではなさそうだ。
「下社の主祭神、ヤサカトメノ神は今はここ、秋宮にいらっしゃるの」
蓮からそう聞くと、秋宮の境内の雰囲気は一層厳かなものに感じられた。
一歩ずつゆっくりと、石畳の階段を上っていく。左右に大きな針葉樹が立ち並び、冬なのにうっそうとしている。階段を上り切ると左手に他よりも大きく立派な木があり、しめ縄が絞められている。
「これは秋宮の御神木の一位の木。春宮にも御神木の杉の木があるのよ。みたでしょ?」
「確かにありましたね」
そんな話をしながら御神木をまわりこんだ。
「…?」
微かな違和感を覚える。そして、御神木の向こう側の建物の目の前まで来たとき、違和感の正体が明らかになった。
「蓮、これ…」
蓮がにんまりと笑って小声で答える。
「気づいたのね、ベレン」
同じだ。殆ど、いや全くと言ってよかった。
「そうよ。諏訪大社下社の二つの宮、春宮と秋宮は、全く同じ造りなの。建造を命じられた時、同じ絵図面を渡されたそうよ」
「ここが神楽殿、そしてその後ろには同じように社殿があるわ」
デジャヴのような感覚に襲われながら、ベレンは神楽殿をまわりこんで社殿に向かった。
綺麗だ。同じ建物をつい先ほども見たはずが、ベレンは全く同じように感動していた。
蓮が話しかける。
「よく見て、ベレン。建物全体の造りは同じだけど、社殿の彫刻だけは春宮と異なっているの。当時の宮大工たちは同じ建物を作る中で、ここで創意工夫や技術を競ったそうよ。ベレンはどっちがお気に入り?」
確かに春宮でみたものとは細部の装飾や彫刻が異なっていた。すごく緻密で美しい。
「私には、優劣なんてつけられません…春宮と秋宮、どちらもすごく綺麗です」
「ん、私もそう思うわ」
蓮は秋宮社殿での参拝を終えると、
「ちょっとお手洗いに行ってくるね、少しだけここで待っていて?」
と言い残して行ってしまった。
ベレンは社殿の前で一人取り残された。
平日だからか、境内には誰もいない。
ほんやりと社殿を背に神楽殿を眺めていると、突然後ろから声が飛んできた。
「ね、あなた、どこから来たの?」
びっくりして振り向くと、20代くらいの若い女の人が社殿の縁側に座っている。冬だというのに青色の浴衣姿に裸足で、黒く長い髪と整った容貌がちょっと人間離れした雰囲気を感じさせた。
驚いて答えられずにいると、その人はそのまま話しかけ続けた。
「異国から来たんでしょ?日の本にはいない顔だもの」
なんとかベレンは答える。
「ええ…アルゼンチンから来ました」
「へえ、どこなの?そこ。どのくらい遠いのかしら?」
「日本から海を挟んで17000kmくらいです」
「千七百キロ…って船でどのくらいかかる?唐国や天竺、南蛮よりも遠いのかしら?」
からくに?てんじく?なんばん?国や地名を指す言葉と思われるが、ベレンには理解できない。それになぜ船…
「船でどれくらいかかるかはわかりません。でも、どの国よりも遠いと思います。」
「それは…よくわからないけど、とにかく遠いのね。そんなところからわざわざ来てくれてありがとうね」
なぜこの人がお礼を言うのだろう。
それに、神社の縁側に座っているのはまずいんじゃないだろうか…
「あの、私が言うことではないのかもしれませんが、神社に上がり込むのは良くないと思います。神様に怒られますよ」
ベレンはおずおずと切り出した。
それを聞いた女の人は、目をまん丸にしたかと思うと、しばらくして突然笑い出した。
「ふふ、そうね。神様に怒られちゃうわね。でもいいのよ。ここ、私の家だから」
…?私の家?意味が分からない。日本語特有のジョーク?ベレンは混乱した。
そんなベレンの様子に気にも留めず、女の人は話し続けた。
「私ね、恋人がいるの。もうずっと付き合っている方なのだけど。でもね、最近全然会えてなくって。そろそろ会いに来てくれないかしらってこうして家の前で待っているのよ」
その物憂げな表情もとても美しく、ベレンはドキドキしながら話した。
「その、お相手はどんな方なのですか?」
「どんな人…かっこよくて、優しくて、強い人よ。随分昔に西の方から諏訪にやってきて、その時に出会ったの。昔は毎年会いに来てくれていたんだけどね、どうしてるのかな…早く会いたいな…」
「連絡をとってみたらどうでしょう?メールとかで」
「めーる…恋文なら書いたのよ?」
そういって彼女はいそいそと神社の中に入ると、四つ折りにされた白い和紙を持ってきた。
「でもね、私、あんまりここから動いちゃいけないから、せっかく書いても彼に届ける方法がないのよね」
そう言って彼女は手紙をひらひらと振り、少しだけ考え込む。
「…あなた、今は旅行中、よね?諏訪大社巡り、といったところ?」
「はい、そうです」
「上社にはもう行ったの?」
何が言いたいのだろう。わけもわからず答える。
「いや、まだです。明日行くつもりです」
それを聞くと、彼女はパっと目を輝かせた。
「お願いがあるの。この文を、上社の本宮に届けてくれないかしら」
「ただ置いてくるだけでいいから。ね?お願い…」
手を握り、縋るように見つめる彼女に押され、ベレンはただコクコクと頷くだけで精いっぱいだった。
「そう、じゃあよろしく頼むわね」
彼女がベレンに手紙を手渡したとき、後ろから蓮の声が飛んできた。
「ベレン!ごめん、お待たせ!帰ろう!」
はっと蓮の方を振り向いて、その後もう一度社殿に振り返ると、浴衣姿の女の人はいなくなっていた。
「…ベレン?どうしたの?」
「蓮、今ここに居た女の人は…」
「女の人、ベレンしかいなかったじゃない」
幻覚でも見たのだろうか?しかし、手にはしっかりと四つ折りにした和紙が握られていた。
「あれ?ベレン、何その紙」
「なんでもないよ」
そう答えると、ベレンは手紙をカバンの中に丁寧にしまった。
「帰りましょう、蓮」
最後、大鳥居をくぐる時、後ろから声が聞こえた。
『きっと、忘れずに届けてね。お願い』
ベレンが振り返っても、そこには誰もいない。
「ベレン?どうしたの?」
蓮が不思議そうにこちらを見ている。
「なんでもない。早く帰りましょう?」
そう言ってベレンは足早に駐車場へと向かった。
その日の夜も、ベレンは民宿で蓮たちと一緒に夕食を食べた。
タケノコご飯やわかさぎの佃煮など、地元で採れるものが所狭しと並んでいる。
一日中出歩いてくたびれたベレンと蓮には温かいご飯はとても美味しく感じた。
女将さんが訊いてきた。
「今日は、ベレンと蓮はどこに行ってきたの?下諏訪のほうに行ったみたいだけど」
もぐもぐと口を動かし、慌てて呑み込もうとするベレンに代わって蓮が答える。
「今日は下社に行ってきたの。春宮と秋宮、どっちも参拝してきたよ」
「あら、それは遠くまで行ったのね。混んでいなかった?」
「平日だからか、全然。秋宮なんて私たちだけだったもん」
ベレンが尋ねる。
「あの、諏訪大社の下社に祀られている神様って、どんな神様なのですか?」
旦那さんが答える。
「ヤサカトメノ神、だね。諏訪にずっといらっしゃる女の神様、つまりは女神様、なんだけど…」
そう言ってから、旦那さんは呆れたように笑って言う。
「ここから先は蓮に説明してもらおうか。何だか自分が喋りたそうだし」
待っていましたとばかりに蓮が口を開く。
「そう、ヤサカトメノ神は諏訪古来の女神様なの。一説には、海の神様であるわだつみの娘であるともされているのよ」
諏訪古来の女神様…
秋宮で出会った不思議な女の人のことがベレンの脳裏によぎった。
いや、でも、そんなまさかね。
「でね、明日行く上社にはタケミナカタノ神っていう男の神様が祀られているのだけれど、この二人は夫婦なのよ。諏訪大社は下社と上社で二人の主祭神を持つ神社なの。さらに言えば…」
堰をきったように蓮は話し続ける蓮を旦那さんが制する。
「ほら、その続きは明日上社に行ってからにしたら?今日はもう遅いし、風呂に入って寝なさい」
蓮は少しだけむくれて答えた。
「はあい。じゃあ続きは明日のお楽しみね?おやすみなさい、ベレン」
「ええ、蓮、おやすみなさい」
女将さんが用意してくれたふかふかの布団の中で、ベレンは今日の出来事を考えていた。
秋宮で出会った女の人のこと、下社秋宮の主祭神であるヤサカトメノ神のこと、彼女の夫である上社の主祭神、タケミナカタノ神のこと。
そして、あの女の人から上社に持っていって欲しいと頼まれた手紙のこと。
カバンを開けると、そこには確かに和紙の手紙が丁寧に折りたたまれて入っていた。
…とにかく、蓮に神様のことをもっと聞いてみよう。そして、上社本宮に手紙を届けるのを忘れないようにしないと。そんなことを考えているうちにベレンは眠りについた。