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気がつくと、ベレンは病院のベッドで横になっていた。重たいぼうぐも汗のしみこんだ道着もぬがされ、ドラマで見るようなかんじゃようの寝巻が着せられている。
横では歩美が心配そうにのぞきこんでいた。
「ベレン!大丈夫?急患で運ばれたんだよ?」
「…うん、大丈夫」
そう言ってベッドから起き上がろうとしたとき、左の足からにぶい痛みが走った。
「…っ!」
「まだ横になっていた方がいいよ。お医者さん、呼んでくるから」
そう言って歩美は病室から出ていった。
しばらくしてやってきたのは、60歳くらいのやさしげなおじいさんだった。
「中央病院の宇崎(うざき)です。専門は整形外科(せいけいげか)をやっております」
むすめかまごほども年がはなれた患者にていねいにあいさつしてきた。
「練習中に、とつぜん倒れたとか。当時の状況をお聞きしても?」
ベレンは出来るだけこまかく話した。わからないところは、となりにいる歩美が教えてくれた。
「なるほど、何か今、お変わりないですか?」
ベレンは、少しためらいながら言った。
「左の足のふくらはぎが痛いです。少しだけ…」
ふむ、と小さく言って、ベレンにしょうにんをもらった後、宇崎先生はかるく体をさわって確認した。
「こうすると痛い?」
「これはどう?」
足首やふくらはぎを曲げたり伸ばしたりしながら、痛いところを一つずつ聞いてきた。
しばらくそんなことをくりかえした後、宇崎先生は少し考えこんでから言った。
「MRI検査をしましょうかね」
ベレンはおどろいた。
「そんなにひどいケガなのですか?」
「いや、なに、そのかのうせいもある、というだけです。ねんのためとりましょう」
そういった宇崎先生の表情は、少しだけかたくなっている気がした。
検査室までいどうするにも、左の足が痛んだ。
大きなきかいでMRI検査をした後、病室に帰されて待っていると、しばらくしてまた宇崎先生がやってきた。
「いちおう、ご友人は席を外していただいていいかな?」
不安そうな表情をしながら、歩美が病室から出ていった。その顔を見てベレンは急に不安になった。
歩美が席を外すと、宇崎先生は何枚かの写真を見せた後、ベレンに言った。
「簡単に言うと、疲れからの肉離れ、ですな。休むひつようがあります」
けいこのしすぎだ。メンバーに選ばれたからとはり切って体にふたんをかけすぎた。歩美に気をつけるように言われていたのに。完全に、体のことを気にしなかったのは自分の失敗だ。
ベレンはあわてた。対抗戦(たいこうせん)が近いのに、ケガをしている場合ではない。
「どのくらいで治りますか?」
「完全に治るまで1か月ぐらいです」
それでは三週間後の対抗戦には間に合わない。いや、間に合ったとしても、それまでけいこができないようでは…対抗戦には出られない。大事なチャンスが、指のすきまから落ちてしまった。
顔から血の気が引いていくのが、自分でもはっきりと分かった。
「そんな…」
そこから先の説明は何一つ耳に入ってこなかった。宇崎先生が帰った後に歩美が心配そうに話しかけても、ぼんやりと返事をかえすだけだった。
家に帰ってからもサポーターで固定された左の足を見るたびに、ベレンは涙がにじみそうになった。ふとんの中に入ってからは、涙が止まらなかった。
次の日、ケガのことを主将にれんらくしなければならなかった。けいたい電話を持つ手がふるえた。ケガをしたこと、対抗戦(たいこうせん)には間に合わないこと、メンバーをやめること。一つずつ説明しなければならない。
「…もしもし、剣道部(けんどうぶ)のベレンですが…今お時間大丈夫でしょうか?…はい、きのうは大変ご心配をおかけしました」
電話で、主将の心配そうな声が聞こえる。
『大丈夫だった?急にたおれたからみんなびっくりして…体調は?』
「体調は問題ないです。ただ、その…」
少しだけ、言葉が詰まった。ギュッと目を閉じて、いきをすってから、一気にはき出しながら言った。
「…疲れで肉離れを、起こしてしまって。全治、1か月だそうです。だから…対抗戦のメンバーは、やめたいと思います」
電話の向こうで、主将がいきをのんだのがわかった。しばらくの間、電話口は静かになった。
『…わかった。本当に残念だったね。今はそんな気持ちになれないかもしれないけれど、道場で会うのを楽しみにしているから。早く治してまたけいこに参加してね』
自分がむりをしてケガをして、みんなにめいわくをかけたのに。最後までなぐさめてくれた主将のやさしさが今のベレンにはつらかった。自分の弱さに押しつぶされそうになった。
それからしばらくは竹刀(しない)を持たない日が続いた。宇崎先生にはすぶりならしてもいいと言われていたけれど、そんな気分にはまったくなれなかった。授業に行かず、歩美からのLINEにも返事をせず、ただアパートの部屋に閉じこもっている生活が続いた。家にいても道場の声や足音が聞こえる気がして、そのたびにふとんにくるまり、耳をふさぎました。それまで毎日着ていた道着は、たんすの奥にしまいこみ、防具や竹刀(しない)も部屋のすみに置いて、見えないようにした。それまで心のささえだった剣道(けんどう)のことを、考えるだけでも大変だった。そんな日が1週間も続いた。
そんなある日、とつぜん家のチャイムがなった。
「ベレン、久しぶり。ちょっとやせた?」
「…歩美」
「対抗戦(たいこうせん)のこと、主将から聞いた。すぶりだけでもいいから、道場に来ない?腕がなまっちゃうし…」
「もう放っておいて」
「どうして?」
「私、半年後にはアルゼンチンに帰るの。今回の対抗戦が最後のチャンスだったのに…もう剣道(けんどう)を続ける意味なんてないよ…」
ベレンは1年の留学生で、半年後には国に帰ることになっていた。この半年の間に行われる対抗戦は、1か月後の六大学対抗戦と、半年後の関東対抗戦の2回。そのうち、ベレンがメンバーに入れるのは、7人制団体戦の六大学対抗戦だけだった。関東対抗戦は、個人戦のわくが2つだけだ。この六大学対抗戦は、ベレンにとって最後のチャンスだった。
「剣道(けんどう)なんて、始めなければよかった。そうすればこんな思いをせずにすんだのに…」
言ってから、自分でもかなしくなった。涙がぽたぽたとおちた。
「どうしてそんなこと言うの」
顔を上げると、歩美がこちらを見ている。その表情がしめすのは、かなしみ、そして静かないかりだ。
「意味がないことなんてない。私の知っているベレンはこんなに弱い剣士(けんし)じゃない。あなたがあの道場で、この半年で学んだのは剣道(けんどう)のぎじゅつだけだったの?」
ほおを平手でたたかれたような、そんなショックを受けた。
静かなアパートのろうかに歩美の今までにないくらい冷たい声が聞こえる。
「私は、ベレンなら個人戦(こじんせん)にも出られるかもしれないって思っていたのに。でも、このままだときたいしすぎだったみたいね」
歩美はそう言って、おどろいているベレンを見ないで、後ろを向いた。
「半年後までずっと泣いているのか、少しのかのうせいにかけてたたかうのか、決めるのはあなたなの。意味がないと思うならやめてしまえばいい」
帰るとき、歩美の声は少しふるえていた。
歩美が帰ったあと、ベレンはアパートで一人、考えていた。
この半年、剣道(けんどう)の練習をつんで、ベレンはあきらめないことを勉強した。最初はだれよりも弱かった。あきらめずに上の人たちと多く練習することで、少しずつ強くなった。かてなかった人にちゃんと向かい、あきらめずに練習を続けるうちに、かてるようになった。入ったときは思わなかった団体戦(だんたいせん)のメンバーをめざすようになった。
この団体戦(だんたいせん)が最後のチャンスだと思い、そのために練習をかさねた。だが、それは個人戦(こじんせん)のメンバーになることを「あきらめて」いるということでもあった。歩美に言われて初めて気づいたことだった。
(でも…)
さらにベレンは考える。関東対抗戦(たいこうせん)の個人戦(こじんせん)に出られるのは、部内で2人だけ。出るためには、最低でも部内で2番目に強い3年の凛(りん)先輩にかたなければならない。ぎじゅつや経験がベレンよりずっとゆたかで、そんけいできる先輩だ。そんな人にかつなんて、本当にできるだろうか…
ふと思い出したのは、歩美が言っていたことだ。
このままじゃただ泣いているだけだ。わずかなかのうせいだが、かんばってたたかった方がいい。
気づくと外はすっかり暗くなっていた。明日、道場に行こう。そして歩美にあやまらなければならない。おれいの言葉もつたえたい。そんなことを考えながら、ベレンはとこについた。
横では歩美が心配そうにのぞきこんでいた。
「ベレン!大丈夫?急患で運ばれたんだよ?」
「…うん、大丈夫」
そう言ってベッドから起き上がろうとしたとき、左の足からにぶい痛みが走った。
「…っ!」
「まだ横になっていた方がいいよ。お医者さん、呼んでくるから」
そう言って歩美は病室から出ていった。
しばらくしてやってきたのは、60歳くらいのやさしげなおじいさんだった。
「中央病院の宇崎(うざき)です。専門は整形外科(せいけいげか)をやっております」
むすめかまごほども年がはなれた患者にていねいにあいさつしてきた。
「練習中に、とつぜん倒れたとか。当時の状況をお聞きしても?」
ベレンは出来るだけこまかく話した。わからないところは、となりにいる歩美が教えてくれた。
「なるほど、何か今、お変わりないですか?」
ベレンは、少しためらいながら言った。
「左の足のふくらはぎが痛いです。少しだけ…」
ふむ、と小さく言って、ベレンにしょうにんをもらった後、宇崎先生はかるく体をさわって確認した。
「こうすると痛い?」
「これはどう?」
足首やふくらはぎを曲げたり伸ばしたりしながら、痛いところを一つずつ聞いてきた。
しばらくそんなことをくりかえした後、宇崎先生は少し考えこんでから言った。
「MRI検査をしましょうかね」
ベレンはおどろいた。
「そんなにひどいケガなのですか?」
「いや、なに、そのかのうせいもある、というだけです。ねんのためとりましょう」
そういった宇崎先生の表情は、少しだけかたくなっている気がした。
検査室までいどうするにも、左の足が痛んだ。
大きなきかいでMRI検査をした後、病室に帰されて待っていると、しばらくしてまた宇崎先生がやってきた。
「いちおう、ご友人は席を外していただいていいかな?」
不安そうな表情をしながら、歩美が病室から出ていった。その顔を見てベレンは急に不安になった。
歩美が席を外すと、宇崎先生は何枚かの写真を見せた後、ベレンに言った。
「簡単に言うと、疲れからの肉離れ、ですな。休むひつようがあります」
けいこのしすぎだ。メンバーに選ばれたからとはり切って体にふたんをかけすぎた。歩美に気をつけるように言われていたのに。完全に、体のことを気にしなかったのは自分の失敗だ。
ベレンはあわてた。対抗戦(たいこうせん)が近いのに、ケガをしている場合ではない。
「どのくらいで治りますか?」
「完全に治るまで1か月ぐらいです」
それでは三週間後の対抗戦には間に合わない。いや、間に合ったとしても、それまでけいこができないようでは…対抗戦には出られない。大事なチャンスが、指のすきまから落ちてしまった。
顔から血の気が引いていくのが、自分でもはっきりと分かった。
「そんな…」
そこから先の説明は何一つ耳に入ってこなかった。宇崎先生が帰った後に歩美が心配そうに話しかけても、ぼんやりと返事をかえすだけだった。
家に帰ってからもサポーターで固定された左の足を見るたびに、ベレンは涙がにじみそうになった。ふとんの中に入ってからは、涙が止まらなかった。
次の日、ケガのことを主将にれんらくしなければならなかった。けいたい電話を持つ手がふるえた。ケガをしたこと、対抗戦(たいこうせん)には間に合わないこと、メンバーをやめること。一つずつ説明しなければならない。
「…もしもし、剣道部(けんどうぶ)のベレンですが…今お時間大丈夫でしょうか?…はい、きのうは大変ご心配をおかけしました」
電話で、主将の心配そうな声が聞こえる。
『大丈夫だった?急にたおれたからみんなびっくりして…体調は?』
「体調は問題ないです。ただ、その…」
少しだけ、言葉が詰まった。ギュッと目を閉じて、いきをすってから、一気にはき出しながら言った。
「…疲れで肉離れを、起こしてしまって。全治、1か月だそうです。だから…対抗戦のメンバーは、やめたいと思います」
電話の向こうで、主将がいきをのんだのがわかった。しばらくの間、電話口は静かになった。
『…わかった。本当に残念だったね。今はそんな気持ちになれないかもしれないけれど、道場で会うのを楽しみにしているから。早く治してまたけいこに参加してね』
自分がむりをしてケガをして、みんなにめいわくをかけたのに。最後までなぐさめてくれた主将のやさしさが今のベレンにはつらかった。自分の弱さに押しつぶされそうになった。
それからしばらくは竹刀(しない)を持たない日が続いた。宇崎先生にはすぶりならしてもいいと言われていたけれど、そんな気分にはまったくなれなかった。授業に行かず、歩美からのLINEにも返事をせず、ただアパートの部屋に閉じこもっている生活が続いた。家にいても道場の声や足音が聞こえる気がして、そのたびにふとんにくるまり、耳をふさぎました。それまで毎日着ていた道着は、たんすの奥にしまいこみ、防具や竹刀(しない)も部屋のすみに置いて、見えないようにした。それまで心のささえだった剣道(けんどう)のことを、考えるだけでも大変だった。そんな日が1週間も続いた。
そんなある日、とつぜん家のチャイムがなった。
「ベレン、久しぶり。ちょっとやせた?」
「…歩美」
「対抗戦(たいこうせん)のこと、主将から聞いた。すぶりだけでもいいから、道場に来ない?腕がなまっちゃうし…」
「もう放っておいて」
「どうして?」
「私、半年後にはアルゼンチンに帰るの。今回の対抗戦が最後のチャンスだったのに…もう剣道(けんどう)を続ける意味なんてないよ…」
ベレンは1年の留学生で、半年後には国に帰ることになっていた。この半年の間に行われる対抗戦は、1か月後の六大学対抗戦と、半年後の関東対抗戦の2回。そのうち、ベレンがメンバーに入れるのは、7人制団体戦の六大学対抗戦だけだった。関東対抗戦は、個人戦のわくが2つだけだ。この六大学対抗戦は、ベレンにとって最後のチャンスだった。
「剣道(けんどう)なんて、始めなければよかった。そうすればこんな思いをせずにすんだのに…」
言ってから、自分でもかなしくなった。涙がぽたぽたとおちた。
「どうしてそんなこと言うの」
顔を上げると、歩美がこちらを見ている。その表情がしめすのは、かなしみ、そして静かないかりだ。
「意味がないことなんてない。私の知っているベレンはこんなに弱い剣士(けんし)じゃない。あなたがあの道場で、この半年で学んだのは剣道(けんどう)のぎじゅつだけだったの?」
ほおを平手でたたかれたような、そんなショックを受けた。
静かなアパートのろうかに歩美の今までにないくらい冷たい声が聞こえる。
「私は、ベレンなら個人戦(こじんせん)にも出られるかもしれないって思っていたのに。でも、このままだときたいしすぎだったみたいね」
歩美はそう言って、おどろいているベレンを見ないで、後ろを向いた。
「半年後までずっと泣いているのか、少しのかのうせいにかけてたたかうのか、決めるのはあなたなの。意味がないと思うならやめてしまえばいい」
帰るとき、歩美の声は少しふるえていた。
歩美が帰ったあと、ベレンはアパートで一人、考えていた。
この半年、剣道(けんどう)の練習をつんで、ベレンはあきらめないことを勉強した。最初はだれよりも弱かった。あきらめずに上の人たちと多く練習することで、少しずつ強くなった。かてなかった人にちゃんと向かい、あきらめずに練習を続けるうちに、かてるようになった。入ったときは思わなかった団体戦(だんたいせん)のメンバーをめざすようになった。
この団体戦(だんたいせん)が最後のチャンスだと思い、そのために練習をかさねた。だが、それは個人戦(こじんせん)のメンバーになることを「あきらめて」いるということでもあった。歩美に言われて初めて気づいたことだった。
(でも…)
さらにベレンは考える。関東対抗戦(たいこうせん)の個人戦(こじんせん)に出られるのは、部内で2人だけ。出るためには、最低でも部内で2番目に強い3年の凛(りん)先輩にかたなければならない。ぎじゅつや経験がベレンよりずっとゆたかで、そんけいできる先輩だ。そんな人にかつなんて、本当にできるだろうか…
ふと思い出したのは、歩美が言っていたことだ。
このままじゃただ泣いているだけだ。わずかなかのうせいだが、かんばってたたかった方がいい。
気づくと外はすっかり暗くなっていた。明日、道場に行こう。そして歩美にあやまらなければならない。おれいの言葉もつたえたい。そんなことを考えながら、ベレンはとこについた。
気が付くと、ベレンは病院のベッドで横になっていた。重たい防具も汗のしみ込んだ道着も脱がされ、ドラマで見るような患者用の寝巻が着せられている。
横では歩美が心配そうにのぞき込んでいた。
「ベレン!大丈夫?急患で運ばれたんだよ?」
「…うん、大丈夫」
そう言ってベッドから起き上がろうとしたとき、左脚から鈍い痛みが走った。
「…っ!」
「まだ横になっていた方がいいよ。お医者さん、呼んでくるから」
そう言って歩美は病室から出ていった。
暫くしてやってきたのは、60歳くらいの優しげなおじいさんだった。
「中央病院の宇崎です。専門は整形外科をやっております」
娘か孫ほども年が離れた患者に丁寧に挨拶してきた。
「稽古中に、突然倒れたとか。当時の状況をお聞きしても?」
ベレンは出来るだけ細かく話した。あやふやな点は隣で付き添ってくれている歩美が教えてくれた。
「なるほど、何か今、お変わりないですか?」
ベレンは、少しためらいながら言った。
「左脚のふくらはぎが痛いです。少しだけ…」
ふむ、と呟き、ベレンに了承を得たのち、宇崎先生は軽く触診をした。
「こうすると痛い?」
「これはどう?」
足首やふくらはぎを曲げ伸ばししながら逐一痛い部分を聞いてくる。
暫くそんなことを繰り返した後、宇崎先生は少し考え込んでから言った。
「MRI検査をしましょうかね」
ベレンは驚いた。
「そんなに酷い怪我なのですか?」
「いや、なに、その可能性もある、というだけです。念のため撮りましょう」
そういった宇崎先生の表情は、少しだけ硬くなっている気がした。
検査室まで移動するにも、左脚が痛んだ。
大きな機械でMRI検査をした後、病室に帰されて待っていると、暫くしてまた宇崎先生がやってきた。
「一応、ご友人は席を外していただいて良いかな?」
不安そうな表情をしながら、歩美が病室から出ていった。その顔を見てベレンは急に心細くなった。
歩美が席を外すと、宇崎先生は何枚かの写真を見せた後、ベレンに告げた。
「端的に言うと、疲労による肉離れ、ですな。安静が必要です」
稽古のしすぎだ。メンバーに選ばれたからと張り切って体に負担をかけすぎた。歩美にも忠告されていたというのに。完全に、体のケアを怠った自分のミスだ。
ベレンは焦った。対抗戦が近いのに、怪我をしている場合ではない。
「どのくらいで治りますか?」
「全治1か月といったところでしょう」
それでは三週間後の対抗戦には間に合わない。いや、間に合ったとしても、それまで稽古ができないようでは…対抗戦には出られない。せっかく掴んだ千載一遇の機会が、指の隙間から零れ落ちる。
顔から血の気が引いていくのが、自分でもはっきりと分かった。
「そんな…」
そこから先の説明は何一つ耳に入ってこなかった。宇崎先生が帰った後に歩美が心配そうに話しかけても、ぼんやりと返事を返すだけだった。
家に帰ってからもサポーターで固定された左脚を見るたびに、ベレンは涙がにじみそうになった。布団の中に入ってからは、涙が止まらなかった。
次の日、怪我のことを主将に連絡しなければならなかった。携帯電話を持つ手が震えた。怪我をしたこと、対抗戦には間に合わないこと、メンバーを辞退すること。一つずつ説明しなければならない。
「…もしもし、剣道部のベレンですが…今お時間大丈夫でしょうか?…はい、昨日は大変ご心配をおかけしました」
電話越しに、主将の心配そうな声が響く。
『大丈夫だった?急に倒れたからみんなびっくりして…体調は?』
「体調は問題ないです。ただ、その…」
少しだけ、言葉が詰まった。ギュッと目を瞑り、息を吸って、その後一気に吐き出しながら言った。
「…疲労で肉離れを、起こしてしまって。全治、1か月だそうです。だから…対抗戦のメンバーは、辞退したいと思います」
電話越しに、主将が息を呑んだのがわかった。暫くの間、電話口は静かになった。
『…わかった。本当に残念だったね。今はそんな気持ちになれないかもしれないけれど、道場で会うのを楽しみにしているから。早く治してまた稽古に参加してね』
自分が勝手にオーバーワークをして、怪我をして、みんなに迷惑をかけたというのに。最後まで慰めてくれた主将の優しさが今のベレンには辛かった。自分の不甲斐なさに押しつぶされそうになった。
それからしばらくは竹刀を握らない日が続いた。宇崎先生には素振り程度ならして良いと言われていたが、到底そんな気分にはなれなかった。授業にも出席せず、歩美からのLINEも返事せずにただアパートの一室に引きこもるような生活が続いた。家にいても道場での掛け声や踏み込みの音が聞こえてくるような気がして、その度に布団にくるまって耳をふさいだ。それまでは毎日着ていた道着は箪笥の奥に押し込み、防具も竹刀も部屋の片隅に追いやって視界に入らないようにした。それまでは心の拠り所だった剣道のことを、考えることすら苦痛だった。そんな日が1週間も続いた。
そんなある日、突然家のチャイムが鳴った。
「ベレン、久しぶり。ちょっと痩せた?」
「…歩美」
「対抗戦のこと、主将から聞いた。素振りだけでもいいから、道場に来ない?腕がなまっちゃうし…」
「もう放っておいて」
「どうして?」
「私、半年後にはアルゼンチンに帰るの。今回の対抗戦が最後のチャンスだったのに…もう剣道を続ける意味なんてないよ…」
ベレンは1年限りの留学生であり、半年後には帰国する手はずになっていた。この半年で開催される対抗戦は1か月後の六大学対抗戦、半年後の関東対抗戦の2回。そのうちベレンがメンバー入り出来そうなのは7人制団体戦がある六大学対抗戦だけだった。関東対抗戦は個人戦の2枠のみだ。この六大学対抗戦はベレンにとって実質最初で最後のチャンスだったのだ。
「剣道なんて、始めなければよかった。そうすればこんな思いをせずに済んだのに…」
言ってから、自分でも悲しくなった。涙がぽろぽろと零れた。
「どうしてそんなこと言うの」
顔を上げると、歩美がこちらを見つめている。その表情から伝わるのは、悲しみ、そして静かな怒りだ。
「意味がないことなんてない。私の知っているベレンはこんなに弱い剣士じゃない。貴方があの道場で、この半年で身に着けたのは剣道の技術だけだったの?」
頬を平手で張られたような、そんな衝撃を受けた。
静かなアパートの廊下に歩美の今までにないくらい冷たい声が響く。
「私は、ベレンなら個人戦にも出られるかもしれないって思っていたのに。でも、この調子だと買い被りだったみたいね」
歩美はそう言い捨てて、呆然とするベレンを尻目に踵を返した。
「半年後までジメジメ泣いているか、僅かな可能性でももがいて戦うのか、決めるのは貴方自身なの。意味がないと思うなら辞めればいい」
帰り際、背を向けたままそう言った歩美の声は、少しだけ震えていた。
歩美が帰った後、ベレンはアパートの一室で一人、考えていた。
この半年、剣道の稽古を積んで、ベレンは諦めないことを学んだ。最初は部内の誰よりも弱かった。諦めずに格上の人たちと沢山の稽古を積むことで少しずつ強くなった。勝てなかった相手にも喰らいついて、諦めずに稽古を積むうちに勝てるようになった。入部当初は夢にも思わなかった団体戦メンバーも目指すようになった。
この団体戦が最後のチャンスだと思い、そのために稽古を積んだ。だが、それは個人戦のメンバーになることを「諦めて」いることの裏返しだったのだ。歩美に言われて初めて気づいたことだった。
(でも…)
さらにベレンは考える。関東対抗戦の個人戦に出場できるのは、部内で2人だけ。出場するためには、最低でも部内で2番目に強い3年の凛先輩に勝たなければならない。技術も経験もベレンとは比べ物にならないくらい豊富な、尊敬できる先輩だ。そんな人に勝つなんて、本当に出来るだろうか…
ふと、歩美の言っていたことが脳裏をよぎった。
どうせこのままではジメジメ泣いているだけだ。僅かな、本当に僅かな可能性だが、もがいて戦った方がずっといい。
気づくと外はすっかり暗くなっていた。明日、道場に行こう。そして歩美に謝らなければならない。お礼の言葉も伝えたい。そんなことを考えながら、ベレンは床に就いた。
横では歩美が心配そうにのぞき込んでいた。
「ベレン!大丈夫?急患で運ばれたんだよ?」
「…うん、大丈夫」
そう言ってベッドから起き上がろうとしたとき、左脚から鈍い痛みが走った。
「…っ!」
「まだ横になっていた方がいいよ。お医者さん、呼んでくるから」
そう言って歩美は病室から出ていった。
暫くしてやってきたのは、60歳くらいの優しげなおじいさんだった。
「中央病院の宇崎です。専門は整形外科をやっております」
娘か孫ほども年が離れた患者に丁寧に挨拶してきた。
「稽古中に、突然倒れたとか。当時の状況をお聞きしても?」
ベレンは出来るだけ細かく話した。あやふやな点は隣で付き添ってくれている歩美が教えてくれた。
「なるほど、何か今、お変わりないですか?」
ベレンは、少しためらいながら言った。
「左脚のふくらはぎが痛いです。少しだけ…」
ふむ、と呟き、ベレンに了承を得たのち、宇崎先生は軽く触診をした。
「こうすると痛い?」
「これはどう?」
足首やふくらはぎを曲げ伸ばししながら逐一痛い部分を聞いてくる。
暫くそんなことを繰り返した後、宇崎先生は少し考え込んでから言った。
「MRI検査をしましょうかね」
ベレンは驚いた。
「そんなに酷い怪我なのですか?」
「いや、なに、その可能性もある、というだけです。念のため撮りましょう」
そういった宇崎先生の表情は、少しだけ硬くなっている気がした。
検査室まで移動するにも、左脚が痛んだ。
大きな機械でMRI検査をした後、病室に帰されて待っていると、暫くしてまた宇崎先生がやってきた。
「一応、ご友人は席を外していただいて良いかな?」
不安そうな表情をしながら、歩美が病室から出ていった。その顔を見てベレンは急に心細くなった。
歩美が席を外すと、宇崎先生は何枚かの写真を見せた後、ベレンに告げた。
「端的に言うと、疲労による肉離れ、ですな。安静が必要です」
稽古のしすぎだ。メンバーに選ばれたからと張り切って体に負担をかけすぎた。歩美にも忠告されていたというのに。完全に、体のケアを怠った自分のミスだ。
ベレンは焦った。対抗戦が近いのに、怪我をしている場合ではない。
「どのくらいで治りますか?」
「全治1か月といったところでしょう」
それでは三週間後の対抗戦には間に合わない。いや、間に合ったとしても、それまで稽古ができないようでは…対抗戦には出られない。せっかく掴んだ千載一遇の機会が、指の隙間から零れ落ちる。
顔から血の気が引いていくのが、自分でもはっきりと分かった。
「そんな…」
そこから先の説明は何一つ耳に入ってこなかった。宇崎先生が帰った後に歩美が心配そうに話しかけても、ぼんやりと返事を返すだけだった。
家に帰ってからもサポーターで固定された左脚を見るたびに、ベレンは涙がにじみそうになった。布団の中に入ってからは、涙が止まらなかった。
次の日、怪我のことを主将に連絡しなければならなかった。携帯電話を持つ手が震えた。怪我をしたこと、対抗戦には間に合わないこと、メンバーを辞退すること。一つずつ説明しなければならない。
「…もしもし、剣道部のベレンですが…今お時間大丈夫でしょうか?…はい、昨日は大変ご心配をおかけしました」
電話越しに、主将の心配そうな声が響く。
『大丈夫だった?急に倒れたからみんなびっくりして…体調は?』
「体調は問題ないです。ただ、その…」
少しだけ、言葉が詰まった。ギュッと目を瞑り、息を吸って、その後一気に吐き出しながら言った。
「…疲労で肉離れを、起こしてしまって。全治、1か月だそうです。だから…対抗戦のメンバーは、辞退したいと思います」
電話越しに、主将が息を呑んだのがわかった。暫くの間、電話口は静かになった。
『…わかった。本当に残念だったね。今はそんな気持ちになれないかもしれないけれど、道場で会うのを楽しみにしているから。早く治してまた稽古に参加してね』
自分が勝手にオーバーワークをして、怪我をして、みんなに迷惑をかけたというのに。最後まで慰めてくれた主将の優しさが今のベレンには辛かった。自分の不甲斐なさに押しつぶされそうになった。
それからしばらくは竹刀を握らない日が続いた。宇崎先生には素振り程度ならして良いと言われていたが、到底そんな気分にはなれなかった。授業にも出席せず、歩美からのLINEも返事せずにただアパートの一室に引きこもるような生活が続いた。家にいても道場での掛け声や踏み込みの音が聞こえてくるような気がして、その度に布団にくるまって耳をふさいだ。それまでは毎日着ていた道着は箪笥の奥に押し込み、防具も竹刀も部屋の片隅に追いやって視界に入らないようにした。それまでは心の拠り所だった剣道のことを、考えることすら苦痛だった。そんな日が1週間も続いた。
そんなある日、突然家のチャイムが鳴った。
「ベレン、久しぶり。ちょっと痩せた?」
「…歩美」
「対抗戦のこと、主将から聞いた。素振りだけでもいいから、道場に来ない?腕がなまっちゃうし…」
「もう放っておいて」
「どうして?」
「私、半年後にはアルゼンチンに帰るの。今回の対抗戦が最後のチャンスだったのに…もう剣道を続ける意味なんてないよ…」
ベレンは1年限りの留学生であり、半年後には帰国する手はずになっていた。この半年で開催される対抗戦は1か月後の六大学対抗戦、半年後の関東対抗戦の2回。そのうちベレンがメンバー入り出来そうなのは7人制団体戦がある六大学対抗戦だけだった。関東対抗戦は個人戦の2枠のみだ。この六大学対抗戦はベレンにとって実質最初で最後のチャンスだったのだ。
「剣道なんて、始めなければよかった。そうすればこんな思いをせずに済んだのに…」
言ってから、自分でも悲しくなった。涙がぽろぽろと零れた。
「どうしてそんなこと言うの」
顔を上げると、歩美がこちらを見つめている。その表情から伝わるのは、悲しみ、そして静かな怒りだ。
「意味がないことなんてない。私の知っているベレンはこんなに弱い剣士じゃない。貴方があの道場で、この半年で身に着けたのは剣道の技術だけだったの?」
頬を平手で張られたような、そんな衝撃を受けた。
静かなアパートの廊下に歩美の今までにないくらい冷たい声が響く。
「私は、ベレンなら個人戦にも出られるかもしれないって思っていたのに。でも、この調子だと買い被りだったみたいね」
歩美はそう言い捨てて、呆然とするベレンを尻目に踵を返した。
「半年後までジメジメ泣いているか、僅かな可能性でももがいて戦うのか、決めるのは貴方自身なの。意味がないと思うなら辞めればいい」
帰り際、背を向けたままそう言った歩美の声は、少しだけ震えていた。
歩美が帰った後、ベレンはアパートの一室で一人、考えていた。
この半年、剣道の稽古を積んで、ベレンは諦めないことを学んだ。最初は部内の誰よりも弱かった。諦めずに格上の人たちと沢山の稽古を積むことで少しずつ強くなった。勝てなかった相手にも喰らいついて、諦めずに稽古を積むうちに勝てるようになった。入部当初は夢にも思わなかった団体戦メンバーも目指すようになった。
この団体戦が最後のチャンスだと思い、そのために稽古を積んだ。だが、それは個人戦のメンバーになることを「諦めて」いることの裏返しだったのだ。歩美に言われて初めて気づいたことだった。
(でも…)
さらにベレンは考える。関東対抗戦の個人戦に出場できるのは、部内で2人だけ。出場するためには、最低でも部内で2番目に強い3年の凛先輩に勝たなければならない。技術も経験もベレンとは比べ物にならないくらい豊富な、尊敬できる先輩だ。そんな人に勝つなんて、本当に出来るだろうか…
ふと、歩美の言っていたことが脳裏をよぎった。
どうせこのままではジメジメ泣いているだけだ。僅かな、本当に僅かな可能性だが、もがいて戦った方がずっといい。
気づくと外はすっかり暗くなっていた。明日、道場に行こう。そして歩美に謝らなければならない。お礼の言葉も伝えたい。そんなことを考えながら、ベレンは床に就いた。