こうしてベレンのカフェでのアルバイトが始まった。
最初のうちは、お店の一連の作業の流れを覚えることが主な仕事だった。
このカフェの売りはハンドドリップコーヒー。コーヒー豆に関する知識や選び方、抽出の仕方など、ある程度技術が求められる。そのため、ベレンは簡単にマスターできそうにない。当面の主な仕事は、コーヒー器具などの洗浄や開店・閉店の準備となった。そして、レジ対応や給仕などにも徐々に移行していく予定だ。
採用された時は学期中だったため、今のところベレンは週に2日しか入れない。しかし、夏休みが始まれば毎日通えるようになる。それまでに、コーヒーの知識を詰め込んでおかねばならないと、ベレンは決意した。そうすれば、いずれハンドドリップも任せてもらえるかもしれない。カフェでアルバイトするならそれくらいはやっておかないと。
ある日、ベレンはいつものように閉店の準備をしていた。
「ベレン、ちょっといい?」
振り返ると、いつのまにかオーナーがベレンの背後に立ち、コーヒーをテーブルに置いていた。
「はい。」
ベレンはオーナーの意図が分からず、つい目線が淹れ立てのコーヒーに行ってしまった。
あれは面接の時、オーナーが入れてくれたコーヒーと同じ匂いがするようだが…。
「少し話そうか?」
オーナーはニコニコ笑みながら、カウンター前の椅子に腰掛けた。
「はい。」
「このコーヒーを味わってごらん。」
オーナーは控えめに笑みを浮かべながら言った。
するとベレンはそっとカップを手に取り、一口すする。
「どう?」
「香りが高いですね。」
「このコーヒー、覚えてるかい?」
「私の記憶が正しければ、面接の時に入れてくれたものと同じですかね?」
「ならば、このコーヒーの名前も分かるね?」
オーナーはベレンを見つめた。
なるほど、私のことを試しているんですね。
「ゲイシャコーヒーでしょうか?」
ベレンはカップから口を離し、しっかりとした口調で答えた。
「そのとおり。」
「じゃ、ゲイシャコーヒーとは何だか、説明してみなさい。」
オーナーは次々と問いを重ね、ベレンを追い詰めていく。
「ゲイシャコーヒーとは、エチオピア・ゲイシャ地区産の希少な高級コーヒーです。その名の由来もそこにあります。」
「栽培が難しく産量が不安定なため、価格は常に高値で推移しますが、その風味は絶品なのです。」
「花の香りとフルーティーな香りが渾然一体となった芳香を持ち、口に含むと紅茶のように爽やかで、柑橘類のようなすっきりとした酸味と甘みが特徴的です。そして、のど越しはまるで蜂蜜のようになめらかな余韻が残ります。」
「このコーヒーの果実味と華やかな香りを存分に引き出すには、豆を浅煎りにし、ブラックにするのがベストなのです。そうすることで、オリジナルの風味を最大限に堪能できるからです。」
この数週間、ベレンは授業の合間を縫って懸命にコーヒーの知識を学んできた。
だからこそ、今やこうした問いに対して、すでに的確に、そしてすらすらと答えられるのだ。
「ふむ、よくやった!私の目に間違いはなかったね。」
オーナーは大いに満足げで、くしゃくしゃと笑みを浮かべ、頷いた。
「君を初めて見た時から、コーヒーに才能があるのを感じていたんだ。」
「味覚が非常に鋭敏で、同時に周りへの観察力も確かなものだから。」
「コーヒーを極めるには、まずコーヒーそのものを知り尽くし、さらに人々の好みを理解する必要がある。鋭い味覚と観察力は、どちらも欠かせぬ資質だ。そして君はその両方を備えているのだよ。」
「そんな過分なお言葉を…まだまだ学ぶべきことばかりです。これからも精進していきます。」
オーナーの賞賛の言葉に、ベレンははにかみながら頭を掻いた。
「さて、そろそろ実践の段階に入るとしよう。理論上の知識は行動に移さなければ空疎なものだからな。本を暗記しているだけではコーヒーは淹れられん。」
「実践、というのは…?」
オーナーは目を細め、ベレンに体を傾けながら問うた。
「どうだね?自分の手でコーヒーを入れてみたくないか?」
ベレンには想像もつかなかった。
入店してまだ日が浅いというのに、オーナー自らからコーヒー抽出を任されるとは。
「私に、できるのでしょうか?」
ベレンは口ごもった。
「もちろん。でも、もし自信がないのなら、お前に任せるべきか私自身が心配になってしまうぞ…」
オーナーは眉根を優しく寄せ、わざと困った様子を見せた。
「自信があります!」
ベレンは慌ててそう答えた。
「経験は浅いかもしれませんが、オーナーの信頼に応えられるよう、しっかりと取り組みます!」
機会が巡ってきたのだから、しっかりと掴み取らねばならない。
「良いぞ、その意気だ!」
オーナーは頷いた。
「初めてのことだからいろいろと予想外の問題に出くわすかもしれない。そんな時は一人で抱え込まずに、私や他の従業員に助けを求めていい。わかったな?」
「はい!」
「それなら来週からアカリと二人でコーヒー抽出を担当してもらおう。」
「ありがとうございます!頑張ります!」